投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

僕が必ず忘れること
【純文学 その他小説】

僕が必ず忘れることの最初へ 僕が必ず忘れること 1 僕が必ず忘れること 3 僕が必ず忘れることの最後へ

僕が必ず忘れること-2

「なるほどね」
「もちろんこれは、断られたって仕方のないことよ」
「今日って君も休みなんじゃなかったっけ?」、と僕は当てずっぽうを言ってみる。
「本当はね。でも書き入れ時だもの」
「それはそうだけど……」
「それに野本さんにも悪いし」
「まぁ、確かにね」、誰だよそれ。
「そういうわけだから、ね?」
「でもさ、休みはきちんととるべきだよ。もちろん君も」
「本当に。そうできたらどれだけいいか」
「それで」、僕は諦めをつけた。たぶん僕は潔い男なのだ。「今から会社に顔出せばいいの?」
「ごめんね。ご飯でも食べてからゆっくり来て」
「お互い大変だね」
 女はため息をつく。「文句ならあとで全部聞くから。現場で待ってるね」
 そこで電話は切れる。細い電話線によって結ばれていたふたつの空間の音的連結ががちゃりと絶たれる。それから僕は会社の場所が分からないことに思い当たる。回りくどい嫌味なんか言ってないで何か理由をつけて住所を訊いておくべきだったのだ。

 僕は電話機の横にある電話帳を捲ってみる。電話帳を捲って判明したことは、お世辞抜きで僕がおそろしく友達の少ない人間であるらしいことだった。とにかくその電話帳の戦場では圧倒的に空白が優勢だった。マ行とラ行に至っては完全に空白の陣地だった。

 好意的に見るなら、その少ない電話番号のリストから会社名を探すのは簡単なことといえた。何しろ会社名はひとつしかない。株式会社うんたら。どこにでもあるような名前の会社だった。記憶が僕の手元にあったとしても、その日の午後の三時には忘れていそうな名前だ。とにかく僕はうんたらの社員で、そこに書いてある住所まで毎日律儀に通っているらしかった。僕はその住所をレシートの裏に書き込んでからスーツに着替えて、休日出勤をするために家を出る。

「立川へ行きたいんだけど」
 中年の駅員は疑わしげに僕の顔を眺める。「切符はあっちで売ってるよ」
「うん、それはもちろん」、駅員が指差すほうを見ながら僕は頷く。確かにそこには券売機がある。「でも、どう乗り換えたらいいのかな」
「どうって、いつも行ってるんじゃないの? よく見かける気がするけど」
「たまに忘れちゃうんだ」
「忘れる?」、駅員はびっくりして言う。「忘れるって何が?」
「ただ忘れるんだよ。何線に乗るとか」
「毎日通ってるのに?」
「毎日じゃないよ。休日も挟む」
「休日ってあんたねぇ……」
「とにかく、どうやって乗り換えたらいいんだろう?」
 駅員は不吉なクジを引いてしまったときのような、不吉な目で僕を見る。「まず、二番ホームから――」

 七分後、二番ホームへやって来た電車に乗り込んで、僕はなんとかひとつの吊革を握ることに成功する。車内は蒸し暑く、様々な体臭のサンプルを集めて系統図にしたような複雑な熱気の層によって成り立っている。時刻は七時半を回ったところで、色々な人間が色々な体臭を発せながら色々な世界へ向かう途中の時間だった。カラーの広告が解体された豚の死体のように不均一にぶら下がっている。電車の中というのは注目すればするほどに奇妙な空間である。

 駅員に教えられたとおりに乗り換えていくと、きちんと立川駅にたどり着く。僕は改札を抜けて、ニューデイズでぱさぱさしたサンドウィッチと缶コーヒーを買い、できるだけ正確な地図を買う。僕は北口の陸橋の上でサンドウィッチを食べながら市内地図を開いて、会社がある場所をそこに探し求める。

 えぇと、今ここにいて、デパートがそこだから、こっち向きに行って、曲がる。で、二丁目ってこっちか? いや、ふうん、なるほどね。じゃあここか、オーライ。

 僕はだいたいの目星をつけて、そこにペンで丸を囲う。あとは缶コーヒーでも飲みながらそこを目指せばいい。サンドウィッチの残りを口の中に押し込んで、缶コーヒーのプルを引き、コーヒーでサンドウィッチを流し込んでから会社を目指す。

 しかし丸で囲った地点に会社らしいものは存在しなかった。丸に沿って歩くと、ローソンのまわりをぐるぐると周回することになった。ぐるぐると周回するたびに、僕は何か思い違いをしているのではないかと不安に駆られる。だって電話帳に間違った住所が記されていた可能性だってあるし、そもそもその住所が僕の勤める会社の住所であるという証拠もない。僕はすべての情報に疑心を抱く。僕は戦場で孤立した負傷兵だ。


僕が必ず忘れることの最初へ 僕が必ず忘れること 1 僕が必ず忘れること 3 僕が必ず忘れることの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前