壁時計-1
楽しい夢を見ていたはずなのに、ぼんやりと目を覚ましたときは、もう何の夢だったのか忘れていた。掛け布団から腕を伸ばして、にぎやかな音を立てている目覚まし時計を探り当て、止める。そのまま抱き枕にのしかかるように、ベッドの上で半分うつ伏せになる。ミルクのように白い、ぼやけた意識の中で、茉琳は直前まで見ていた夢を探し当てようとした。しかし、半覚醒の脳は、何の像も結ぼうとはしない。頭を揺するようにして、茉琳は仰向けになり、両手を頭の上で組んでグイと伸びをした。
あの人の夢だったような気がする。そう思ったとき、ひとりでに手が胸に向かっていた。いま彼はB**国にいるのか、あるいはまた別の国なのだろうか。連絡は久しく途切れていた。どこにいるのかわからないという意味では、世界の端と端くらいに隔たった位置にいる二人だった。人生の最も美しく、激しいときに、茉琳は燃えるような恋に落ち、彼の願いのままに、喜んで躯を捧げた。その証を、まだ捨ててはいない。
茉琳は無意識のうちに愛おしく乳房の輪郭をなぞる手を休め、眩しい朝に光に苛まれながらも、上目遣いに目覚まし時計を見た。
−8時だ。
目を擦りながら、茉琳は独り寝のベッドから下りた。仕事に出かける時間が迫っている。
−あーん、こんなに寝癖ついちゃってる。
茉琳は鏡を見ながらため息をついた。今日は特に念入りに身支度をしなければならない。どんな装身具を身につければよいか、鏡の前でさんざん迷った。もういい、このネックレスにしよう。茉琳はバタバタと家を飛び出していく。
駅まで5分、電車に乗って20分。なまあたたかい車両の中で、繰り返しアナウンスされる代わり映えしない停車駅の名前、電車が止まるたびに鳴るけたたましいベルの音。慣れっこになってしまった騒音を子守歌にうつらうつらしていた茉琳は、近くで布の擦れるような小さな音に気づいて、ふと目を開けた。前に立っている男が、ズボンのポケットから手を突っ込んで、股間をもぞもぞさせている。
−何してるのかしら。
一瞬不思議に思った茉琳は、すぐにその意味を悟り、目を固く閉じた。
−胸の谷間を見られている。上から。
ネックレスが綺麗に映えるようにと、そのことばかりを気に掛けていた。ピンクのカットソーのカーディガンを羽織ってはいたものの、そろいで合わせたキャミソールの胸元が広く空いていたのだ。かといって今から隠したりするのも、変である。あれこれ悩みながら、茉琳は躯が芯からポッと熱くなるのを覚えた。今朝見た夢の輪郭が、不意に鮮明になる。あれは、あの人が嬉々とした笑顔を浮かべているところではなかったか。人なつっこくて、どこか恥ずかしげで、見る人を和ませるような笑顔。それだけならどうってことはなかったが、彼の場合、その裏にたぎるような熱情を持っていた。日本人にない、その激しい部分に茉琳は打たれたのだった。でも、今から思えば……
−単なるエッチ心だったのかも知れない。
そう思うと茉琳はなんだか心が強くなって、前で立っている助平男と対峙できそうな気がしてくる。目を開けてどんな顔をしているのか確かめようとしたとき、駅を目前にした電車がブレーキをかけ、人の群れがザザァッと流れて行ってしまった。
茉琳はカーディガンの前をしっかり合わせ、こんもりと熟れた果実から放たれる芳香を抑えるようにした。
茉琳はぎりぎりの時間に会社に着いた。今度の派遣先の会社に通い始めてもう二月半。外資系の薬品会社の秘書室でファイリング、パソコン操作、受付などをしている。茉琳は英語に強いというふれこみで、ずっと外資系の会社を希望して渡り歩いている。業務内容が明確でブレないところや、社内の雰囲気がベタベタしていないところも気に入っていた。
茉琳が自席で役員のスケジュールを確認しパソコンに入力していると、後ろに人が立っている気配がする。振り向くと、次長の岡部が立っていた。禿げ上がった頭頂部から顔面までの膚を、油脂を塗ったような感じに光らせ、ニヤニヤと笑っている。茉琳は、岡部の視線が自分の胸元に向けられているように感じた。
「はい?」
茉琳が愛想笑いをしながら見上げると、岡部は
「今晩の打ち上げ、出席してくれるよね?」
と言う。
「はい。出席のお返事をメールで差し上げましたが」
−あんた、見たはずでしょ。何しに来たの。
茉琳は胸の中でつぶやいた。
「あ、そうだよね。今晩はボスも出るということだからよろしくね」
「はい」
茉琳は答えた。しかし、何が「よろしく」の内容なのかは、分からない。
岡部はもう一度舐め回すように茉琳を見てから、離れていく。その視線に寒気を覚えた茉琳は、とりあえずカーディガンの前を合わせた。
「何考えてんだか」
茉琳は思わずひとりごちた。
岡部が言っていたのは、今日午後6時から開かれる「ワンダー21ゴーゴーキャンペーン」目標達成の打ち上げのことである。この会社はやたらこの手の飲み会が多い。たいてい繁華街から近い、小洒落た店を貸し切って、テンションの高い学生コンパのようなノリになる。血圧が低めの茉琳には辛い。しかし、派遣社員まで打ち上げ会に動員されるって、どういうことなんだろう。宴会コンパニオンと同視しているのか。結局、仕事だけでなく、こういうことにまで「間に合わせ要員」に使われてしまうのだ。会費制だったら絶対行くものか。