壁時計-3
用を足した茉琳がトイレのドアを開けようとしたとき、ドアを挟んですぐ外の廊下で男が自分の名字を呼んだ。ギクッとして、茉琳は耳を澄ました。
「狩野?狩野茉琳か?」
「うん。アイツ、乳デカイよな。ああ、一度でいいから抱いてみたいなぁ、ああいう女」
「人妻だぜ」
「うー、たまらん」
「つきあいもいいのか?」
「分からん。でも、誘えば来るんじゃないかな」
声がどんどん遠くなり、そこから先は聞こえなくなった。茉琳はそろそろとドアを開けて外へ出た。あの二人が誰だったのか、声だけでは分からない。どこの世界でも、こういう男はいるものである。茉琳はさして気にも留めなかった。
茉琳が入口に戻りかけると、角を曲がったところで壁にもたれている一人の若い社員とぶつかりそうになった。
「あ、ごめんなさい」
「いや、こちらこそ」
若者はグラスを手に一人でたたずんでいる。色白の、幼い感じの顔をしていた。ちょっと深刻そうな表情に見える。
「あの、どうかしましたか?」
茉琳が上目がちに聞くと、
「いや、明日大事なプレゼンがあって。初めてなんで緊張しちゃって」
と腹の辺りを片手でさすった。
「痛みます?」
茉琳は心配そうな顔で言った。若い社員は口の端を上げて少し微笑むと、
「胃に穴が開きそう。……ところで、ウチの社員ですか?」
と聞いてきた。
「派遣ですけど。狩野と言います」
「狩野……茉琳さん?」
「ええ。どうして私の名前を知っていらっしゃるの?えーと……」
茉琳は小首をかしげた。
「ごめんなさい。僕、浜本と言います。さっき、ここにいたらあなたのことを話していた人がいたから……」
「え?」
茉琳は分からない振りをしたが、分かっていた。浜本はあの男たちの話をすべて聞いていたのだろう。
浜本は一度伏せた目を上げて、茉琳を見た。茉琳は、その瞳があの人に似ていると感じた。
茉琳が店内のもといた場所に戻ろうとすると、行く手を遮るように岡部がぬっと現れた。もう酔ったのか、顔が赤い。
「ああ、狩野君、君のご主人はどういう関係の仕事をされているのかな?」
唐突な質問を投げかけてくる。
「え?あの……」
茉琳がこめかみのあたりを手でおさえてどう答えたものかと思案していると、更に
「外国人で、しかも医者だというじゃないか。こんな美人妻を働かせなきゃならんほど困っておらんだろ、え?」
と結婚指輪が光る茉琳の左手を包み込むように触ってくる。茉琳は本当にめまいを覚えた。こういう男は、最も嫌いなタイプである。
「もしそうなら、うちのいい薬を買ってもらおうと思ってさ。営業だよ。悪い話じゃない……」
「すみません。もう、眠たくなっちゃって」
迫ってくる岡部に対して、適当なことを言いながら茉琳は右手で目を擦り、左手を引っ込めようとする。しかし、岡部は心なしか握力を込めたようで、茉琳はよろけてあやうく岡部に倒れかかりそうになった。そのとき、
「おおっとっと……大丈夫ですか?」
と、茉琳と岡部の間に男が一人割り込んできて、茉琳の右腕をとった。その男の手を頼りに茉琳が姿勢をしゃんとしたときは、すでに男は岡部に向かって話しを始めていた。ごく自然に岡部から茉琳は逃れている。
「……しかし、次長、M社も打つ手が裏目裏目に出てますね」
「M社?あそこは、最近有能な広報担当者が辞めてしまってからてんでダメさ」
「やはり我が社は岡部次長、次長の采配で安泰ですな」
「フハハハ、箕田君、いいこと言うじゃないか。いいか、こういうことには、チョロチョロ金を小出しにするんじゃなくて、一気にドンと出さなきゃダメなんだ。兵法の極意と同じだよ」