<凄艶な刃>-5
しかし、絶頂の窮地でふと立ち止まる秀介。
徐に動きを止めた秀介が、俯いたまま呟いた。
「お前はずるいよ、悠吏…俺の心に勝手に入り込んで、そして勝手に出ていく……本当に俺を置いていくのならせめて、俺を嫌いになれ…嫌いになってからいなくなってくれ…」
嫌いに…嫌いになれ……
耳朶を掠める彼のうわ言…
赤く染まった俺の胸の中で脱力した身体を預けて…
それが彼の本心だった…
初めて見る零れる涙……
愛だったなんて言わないで…愛しいと思うなら、嫌いになって欲しい
傷ついたレコードのように、彼はそう何度も繰り返した。
あぁ、ごめんな秀介…だけど、俺はお前の気持ちに答えてやれない。
だって俺には、お前を嫌いになる、その術がわからない…
だって俺には、お前を嫌いになる理由がない…
俺はふと落とした視線の先に転がっているステンレスの刃へと手を伸ばした。
俺の胸に愛を刻みん込んだ赤い痕跡を残しているそれを握り締めると、そのメタリックな物質は異常に冷たく感じた。
俺は濡れた瞳で追い縋るように見る秀介を冷やかに見詰めたまま、そのナイフを握り締め、刃先に付着した己の血液を舌で舐め取ってにやりと笑う。
その時、俺の中に沈めたままの秀介自身がピクリと反応する。
興奮?それとも……恐怖?
俺の凄艶な姿に更に双眸を見開いた秀介の頬を優しくナイフの腹でなぞってやる。
嫌いになることも、忘れる事も出来ず…そして一緒に居ることも出来ない。
大好きな秀介が苦しんでいる。
それならいっそのこと一生会わなければいいんだよ。
一生会えないように、俺がしてやるよ。
俺がいなくなるか、アンタがいなくなるか…
それともどっちもいなくなってしまうのか…
全ては今、俺のこの掌の中……
そして、どっちにしても秀介、お前は一生後悔すればいい…
俺を愛してしまったことを……
俺は、肩を竦めてクスリと秀介に笑いかける。
そして俺は……
頭上高く振り翳した小刀を迷わず一気に振り下ろした。
小さな駅のホーム…
落書きだらけの青いベンチに浅く腰掛け、だらしなく背凭れに凭れ掛かる男。
チリチリと音を立てて煙草先端から立ち昇る細い紫煙の向こう側。
規則正しく並ぶ電柱と真っ直ぐに続く道を陽炎が揺らめいて全てを視界から霞めてしまう。
その時突如、日陰のひんやりとした風がフワリとシャツの袖から入り込んで、襟元から抜けて無造作に流した柔らかい髪を舞い上げる。
片手で髪を押さえて、ふと右前方を眇めた眸は、線路の彼方からやってくる短い電車を射止める。
口端を吊り上げ微笑むが、その男は立ち上がるわけでもなく、そこにだらしなく腰掛けたまま静かに目を閉じた。
乱れた胸元に手をやって、触れたケロイド上の赤い痕を人差し指で緩くなぞり、すぐに襟を正す。
ゆっくりと滑るように入ってきた電車。
プシューっと空気の抜けるような音と共に扉は開き、直ぐに小さく笛が鳴れば、扉は閉まる。
蝉の声よりも遙かに小さな音で電車はホームを出て行く…
再び静寂に包まれる駅のホーム…
線路の向こうの陽炎と口許の紫煙の間に、見えずとも感じる人影……
その時再び風がホームを横切り、うっすらと目を開けた男は、風が舞い上げた目の前の男の胸元を見遣やり、ニヤリと笑みを浮かべる。
愛の痕…か……
男は呟いて、ゆっくりと男の顔へと視線を上げた。