MERMAID-1
「人の体はそう言う風に出来ていないんだ。
例え呼吸が出来たとしても長い間水に浸かって居ると皮膚の成分が染み出してしまう。
塩分濃度の高い海水なら尚更の事だ。
2日も保たずにすっかり衰弱してしまう。」
必死に引き留め工作をしたにも関わらず、私と妻は家庭内別居状態に陥った。
話し掛けようとも彼女から返事はない。
老婆の様に震えながら空気を送るポンプが轟々と響いているし、第一空気中から水中へは音が伝わりにくい。
昼間は観客にぎわうイルカ槽を、主に破棄された車椅子と私だけが観覧していた。
妻は3年前、まさにこの場所で行われたイルカショーにインストラクターとして出演中、不慮の自己で下半身の大部分の自由を失った。
気遣う私や周囲をよそに、彼女は自らのもう一つの肩書きである海洋学者の仕事を精力的にこなしはじめた。
その頃彼女は私の妻では無かったが、事故後研究室で時間を共にする事が増え、事故から約一年後入籍を果たしたのだ。
私が交際を申し込んだ時彼女は当然の様に断ったが、私は彼女の体が不自由なのを良いことに無理矢理デートに連れ出した結果である。
何とも卑怯な話だが、体の不自由さを差し引いてもそれだけの魅力が彼女にはあったのだ。
事故後すぐに妻は子供が産めないとの診断を受けていた。
しかし、水族館の生物は皆私にとって子供の様なものだった。
妻との生活に不満を感じた事など一度も無い。
それ故に、この状況に私は酷く混乱していた。
「私、人魚になるわ」
以前と変わらぬ姿でウェットスーツを着込み、旧式のエアーポンプに燃料を入れながら妻はそう言い放った。
「もう沢山。
車椅子は腕が疲れるし、昔の様にショーにも出られない。
あなたの両親の期待にだって一生応えられないわ。」
「車椅子ならいつだって僕が押してやるし、ショーだって工夫すれば何とか成るさ。それに、僕たちには沢山の子供がいるじゃないか。つい最近だってゴンドウイルカの赤ちゃんが生まれたばかりだ。」
彼女が抱えていた悩みは至極当然の物だったし、彼女の気丈にかまけてそれを無視していた事を知った私は彼女の真剣さに気づかぬ程慌てていた。
そして、水面に消えた彼女が残した言葉でやっと事の重大さを認知したのだ。
「重たいのよ。この足も、みんなの目線も期待も全部。」
赤いふいごを握っては放し、握っては放し。
ポンプで携行缶に油を移し変える。
これ迄何度と無く繰り返した行為だ。
その日常性とは裏腹に、この作業は妻の生命維持と直結している。
私が給油を止めれば、今も水中に酸素を送り続けているポンプは停まる。
今や私の手の中の赤いポンプは、彼女の脳に酸素を送り込むポンプ
ー心肺ー
と同意義なのだ。
無論彼女の死を望んでなどいない。
早くに両親を無くした彼女の生を、誰より強く望んでいるのは私だろう。