楓《前編》-3
想像するにそれは、僕が生まれたばかりの頃にはまだ無かったはずだった。そんな訳の分からない腕が付いて産まれて来たら、手術か何かでとってしまうはずだからだ。
それならば、一体何時その腕は生えて来たのか。
幼少期、僕は脇の下に激しい痒みを感じていた。皮膚の、内側の方からだ。
三本目の腕は親の目を盗み、着実に成長していった。それは僕にとっては当然の事のように感じられた。声変わりの方が、余程衝撃的だった。
しかし、勿論普段の生活の中で、僕は三本目の腕をひた隠しにして生活をしていた。タンクトップは着ない。Tシャツは、大振りなサイズを選ぶ。腕は真っ直ぐ下に降ろし、袖や裾からはみ出ないようにする。銭湯には行かず、セックスは服を着たまま。三本目の腕の事を知っているのは、只一人、友人Aだけだ。貴女がそれを見たらなんて言っただろうか。それを考えることも、今となっては無意味。貴女の体はとっくに灰となり、自然と同化してしまった。
どうやら楓は僕を気に入ったみたいで、何度か二人で遊びに行った。手を繋いで公園を歩いた。映画を見た。短いキスもした。
職場と家の往復という単調な毎日は、たった一人の女の子の出現によって、その色彩を変えた。
僕は楓が大好きだった。楓も、多分僕に行為を抱いていた。それでも、僕らの関係が前に進む事はなかった。
楓は、僕に何度も言った。「ずっと友達でいようね」と。
傷つかないように。
傷つけないように。
裏切らないように。
憎まないように。
「山本さんと、遊んでるんだって?」
例の合コン以来、二週間振りに友人Aと会った。いつものファミレス。いつもと同じ、窓際の席。
「山本さんは良い娘だよ」と僕は言った。山本とは、楓の姓の事だ。
「気に入った?」目を輝かせて彼は身を乗り出す。
「そんなんじゃないよ」僕は首を振る。
「じゃあ、どんなんなんだよ?」
「ただの友達」
「そんな事だろうと思ったよ」友人Aは溜め息混じりに言った。「お前、知ってたか? 山本さん、前に不倫してたんだ」
「不倫?」
「そうさ。不倫って言っても、男が妻子持ちでさ。山本さんにとっては純愛だよな。…その時、山本さん中絶してるんだ。それから、一度も彼氏を作らないんだって」
「それは、あの茶髪のロングヘアから?」僕は、合コン当日友人Aと消えた女を思い浮かべた。
「そうさ。山本さんに良い出会いをプレゼントしたいって、そういう魂胆であの合コンは開かれたんだ」
「その割には、山本さんと僕を残してみんな消えたな」
「それはそれ、これはこれだ」バツが悪そうに彼は言って、僕は苦笑した。「でも、良かったじゃないか。山本さんと、仲良くやってるんだろう?」
「当たり障りのない程度にね」僕は言って、傷ついた楓の事を思った。心のどこかで、楓を助けてあげたいと思った。知らず知らず、手のひらを握っていた。
季節は巡り、雪が降り始めた。世界は白に包まれ、朝早くから雪かきを始める人々の姿が増えた。仕事途中に休憩していたお気に入りの公園も雪で埋まってしまった。
僕と楓の距離は一定を保ったままだった。想いを込めたキスも、とてもとても仲の良い友達、という呼び名の元、その意味は失われた。相変わらず僕は楓に恋をしていた。熱くもならなければ、冷めもしない静かな恋だった。
その日、僕は楓の好きなケーキを買って、彼女の家を訪ねた。彼女の家に来るのは、これが四度目だった。
インターホンを鳴らす。反応はない。ドアノブを回すと、鍵は開いている。中に入ると楓は眠っている。主成分ブロムワレリル尿素の錠剤の瓶が転がっている。背中に冷たい汗が滲む。貴女を思い出す。宇宙は拡大する。辺りは静かになる。風でカーテンが揺れる。楓が死んでいる。