MY PICTURE【真夜中のバーとダニエル】-2
中古で買った白いフィアットを走らせて事務所の前に到着した時には、既に建物の灯りは消えてしまっていた。
何かの間違いか、それとも悪戯だろうか。
戸惑って車から降りられずにいると、窓ガラスを叩く音がした。編集担当が、ボブカットを揺らせながら運転席を覗き込む。
「開けて頂戴」
乗り込むと、やれやれというように左手のメンソール煙草をくゆらせた。
「さ、行きましょうか」
事も無げに言い放つ。俺の周りには、どうしてこう不可解な人間ばかり集まってくるんだろう。
「行くって、何処へですか」
あからさまに困惑した声をだすと
「そうねぇ、何処がいい?」
ときた。
「随分ですね。夜も遅くに…飲んでます?」
煙草臭さで分からなかったが、微かにアルコールの甘い匂いが漂っていた。
「まぁ、少しね。気にすることはないわ」
気にするよ、と心の中で嘆息した。
「何か用なんですか?」
ただの酔っ払いの気まぐれなら、さっさと帰って眠りたい。それに、煙草は嫌いな質だった。
「割の良い仕事の話があるんだけど、どうする?帰る?」
挑戦的な目は面白がっているふうにも見えた。
「…何処にします?」
掛った、と言わんばかりに光った目の色を、俺は見逃さなかった。「いいお店を知ってるの。話しながら少し付き合って」
担当編集の誘った店は、落ち着いた雰囲気の小さなバーだった。
「建物を撮る企画なの」
ジンライムを口に運び、編集は言った。
「廃ビルとか、高層ビル、映画館から何でもね。“今日の風景”っていう、雑誌のコーナーの1年契約。そんなに誌面は貰えないけど、上手くいけば来年も企画を継続、っていうのも可能よ」
どう?やってみる?と、問われた。断る理由は無論ないが、
「それは有り難いですけどね、そういう話をどうして僕に、こんな夜中にバーでするんです?」
酔った勢いで呼び出される程親密でもないはずだった。
「そうねぇ。」
少し思案するふうに眉根を寄せながら、くいっと残ったジンライムを飲み干した。
「私の名前を言えたら教えてあげる」
「名前…ですか?」
痛い所を突かれた。俺は人の名前を覚えるのがすこぶる苦手だ。さっきから名前を呼ばなかったのも、たまに事務所で会うだけの人間の名前など、勿論覚えてなどいないからだった。
「覚えてないんでしょ」
「…すいません」
大袈裟にため息を吐いてから、担当編集は名刺を差し出した。
「今度から仕事あげないわよ。ちゃんと取っときなさいね、これ」ぐうの音も出ない。完敗だ。これから雑誌の仕事が入るなら付き合いも増える筈だし、きちんと頭に入れておくべきだな。
「はい、すいませんその…緑川さん」
「下の名前」
拒否権は無い。しかし、名刺に書かれたその名前が、俺を新たに混乱させた。
「…ダンさん?」
途端に彼女は爆笑した。あはははは、と、ちょっと場にそぐわない程大きな声で笑い続け、うっすら涙さえ流している。
「“まどか”よ。緑川団。ローマ字で振り仮名ふってあるでしょ?間抜けな男ね」
笑いを堪えながら言うために、細すぎる喉の奥で喉仏が上下するのが見えた。
「でもいいわね、それ。映画俳優みたいで。それで呼んでくれて良いわ」
と、担当編集、もといダンさんは言った。
「はあ…」
「君のこと、気に入っちゃった」
くすくすと笑うと、その度にダークブラウンの髪がさらりと揺れた。
「私ね、君の写真が好きなのよ」唐突にダンさんは言った。
「それが理由のひとつかな」
何杯目かのジンライムがダンさんの前にからりと置かれる。