瀬尾岩之助という男-3
岩之助と里夢の二人は、本社内の廊下を並んで歩いている。廊下の天井には照明が等間隔で設置されて、日中にも劣らないくらいに明るい。
「二人で歩くの久々ですね。総務部では他の社員さん達の目がありますから」
「‥‥そうだな」
「私達ってどう見えてるんでしょうね?上司と部下‥‥知らない人が見たら親子かな?」
「‥‥‥‥」
他人から見た関係を想像してクスクスと笑う里夢に対し、岩之助は無表情だ。
志乃野木商事の一般社員からすれば、岩之助と里夢の関係性は同じ部署の上司と部下以上の想像は出来ない筈である。
「どこまで行くつもりだ?このまま会社にも黙って外に出るつもりか」
目的地を教えない部下に苛立ち、皮肉めいた言い方になる岩之助。
「もうちょっとですよ」
里夢はそんな言葉を向けられてもご機嫌だった。
暫く歩いてやがて一つの部屋の前に着くと、里夢が先にドアを開けて部屋に入って、岩之助が渋々その後に続く。
二人が入った部屋は会議室の一つだった。
志乃野木商事の本社ビル内には幾つかの会議室があるが、経営方針を話し合うような役員会議室を除けば、どの部署でも配置にそれほどの大きな違いはない。
二人が入った会議室は10人以下くらいの小規模な人数で会議を行うようなもので、8脚の黒い椅子がテーブルを挟んで四脚ずつ並んでいる。プレゼンテーションで使うホワイトボードは、キャスターが少々定位置からズレていて、更にボード自体に消した跡が僅かだが残っている所を見ると最近使ったことが読み取れる。
「‥‥それで、二人っきりになってまで私に一体何の用事だ?」
岩之助は視界の端にホワイトボードを留めながら、会議室の壁を背にして尋ねる。
里夢は会議室の鍵をガチャっと掛けると、改めて岩之助と向き合う。
「分かっていて言ってます瀬尾部長?私が呼ぶ用事なんて二人の関係って決まってるじゃないですか」
「‥‥‥‥」
楽しそうに告げる里夢に、岩之助は思わず心の中でグッと身構える。
里夢はニコッと笑みを浮かべて話を切り出す。
「単刀直入申し上げれば、具体的にいつ奥さんと別れてくれるという話です」
「‥‥本気で言っているならそれは無理だ。結婚してまだ数年も経ってないし、私は妻と別れる気はない」
「まぁ、半分は冗談ですけどね。でも、もし別れたら私と問題なく再婚が出来ますね」
「‥‥そうだな」
部下の想いをやんわり流しながらも、岩之助の心は決まっていた。彼には小夏と別れる気も、里夢と再婚する気は両方ない。
「出来れば隠れた関係じゃなくてお父さんにも正式にお付き合いしていると報告したいんですけど、私も無理強いはしないつもりです」
里夢の話を聞いた岩之助は、「よく言う」と途中で口を挟みそうになった。
そして、それほど物分りのいい女ならば現在まで自分は悩むことはなかったのに、と岩之助は思った。
「ところで、ここに来るまでに私が話したことを覚えてます?」
「‥‥何の話だ?」
小夏の問い掛けに、岩之助は疑問符で返す。
「ここに私と瀬尾部長が他の社員さん達からどう見えるかって話です」
「君が言った通り上司と部下、だろう?」
里夢は首を横に振る。
「それでは不正解です。正解は、勿論知っていますよね?」
「‥‥‥‥」
問い掛けられて岩之助は無言になる。
岩之助は、里夢の言う通り正解を知っていた。
だが、その答えを口には出したくはなかった。
「だんまりですか?なら今から私が代わりに他の社員さん達に教えてあげましょうか?」
部下から脅し文句に、岩之助は渋々答えを口に出す。
「愛人関係だ」
「はい、大正解です。花丸あげましょう」
パチパチ‥‥と手を叩いて喜ぶ里夢。
岩之助は自分で発した言葉で心を痛める。
愛人関係。否定したくてもそれが、現在までの岩之助と里夢の関係であった。
「私今でも時々思い出すんです。"あの日"のことを。私と瀬尾部長が関係を結んだ日のことを‥‥」
ポッ、と頬を赤らめて恥ずかしそうに両頬を左右の手で押さえる里夢。さながら恋する乙女のようだ。対して岩之助は怪訝そうに眉をひそめる。