TRANCE-3
気のせいか、声にすれば声にしただけ、辺りの気温が一度ずつ下がって行く気がする。それでもかまわず、僕は叫びながらひたすら前へ進んだ。しだいに息も白くなってきて、足を止めた。妙だ。さっきまでと景色が微妙に違う。どこから変化したのだろう。そう思って振り返った所で、ギョッとした。目を剥いたまま、息さえも止まった。ない。背中から先の世界がなくなっていた。真っ白だ。一度足を踏み入れた場所は消えてしまうというのか。これがミユの世界。こんなにもろいというのか。僕は、屈託ない笑顔で笑う彼女知っていた。気が強くて、面倒見がよくて、いつもだらしのない僕を叱ってくれる彼女を知っていた。喧嘩をしたら絶対に自分から折れないミユ。それも知っている。だけどそれだけだ。僕は、彼女の何をどこまで知っていたというんだろう。自分の馬鹿さ加減に怒りさえ沸いてこない。あるのは、恥だ。僕は薄く青がかった砂の上へひざまついて、倒れ込んだ。ミユは強い女じゃなかったんだ。
本当は、誰よりも繊細で、弱かったから強気だったんだ。涙を流しながら、僕はポツリと彼女を呼んだ。 その瞬間だった。気が付くと、僕は石の上にいた。いや。石じゃない。これは、水晶かなんかだろう。つるりとした手触りと冷たさが、僕の指先を刺激した。ふと気配を感じた。のろのろと顔を上げて、息を飲んだ。
ミユ。声にはならなかった。ただ、唇が彼女の名前をかたどった。目の前には、彼女が立っていた。間違いなく、紛れも無く、ミユだった。僕の恋人だった。大切な宝物。
肩まである髪の毛は癖っ毛で外に撥ねている。一重の大きな瞳も、ぺちゃんこの鼻も、よく通った鼻筋も、華奢な肩も、身にまとった純白のドレスを通して、なにもかもが、輪郭を持った彼女自身の証明として僕を見つめている。
「ミユ」
僕は無理やり声を押し出した。
「一緒に、帰ろう」
起き上がり、彼女へ手を差し出した。瞬間、グラリと世界が揺れた。あれだけしっかりしていた足場が砂になり、僕らを飲み込んで行く。態勢を崩した僕は弾かれたように手を伸ばして、その先にあるミユの細い手首をとっさに握っていた。彼女の体は空気のように軽く、ふわりと宙を舞い、やがて張り付くように僕に体を預けてきた。
圧迫感は、まるで感じなかった。ただ、何かの映像が僕の脳を直接刺激した。声。笑い声。泣き声。喧嘩。非難。また泣き声。ふくれっつら。感嘆する表情。睨む。思案に耽る。寝顔。寝顔。恥じらう表情。流れてくる。町並みも景色も、温度以外は全て。これは、記憶だ。僕とミユが作り上げて来た記憶。そうか。僕は、ミユを抱き締めたまま理解した。彼女は、少なくとも、僕に幻滅した訳ではないということを。
ゆっくりと崩れていくこの城は、僕らの思い出で作られていたんだ。この世界そのものが。彼女は、その中に逃げ込んだ。彼女は自分自身の大切なものを逃げ道としてトランスした。
遠くから、誰かが僕を呼んだ。目を開けようと意識しようにも、うまく瞼に力が入らない。にじんでいた声が、しだいに明確になっていく。僕は、声でそれに答えようとして、口を動かす。すると、何かが唇に触れた。馴染んだ、よく知っている感触に反応するみたいに僕の瞼がぱちりと開く。視界いっぱいに、彼女の顔が映って、驚いた僕はわずかに声を上げて跳び起きた。自分のおかれている状況をきちんと理解したのは、この時点だったと思う。二つのコールドスリープ。僕らを見つめている医師とスタッフ。彼らを順繰りに見つめた後、ミユに向き直る。彼女の顔は、少し痩せていた。
「ミユ、なのか?」
沸き上がろうとする歓喜を押さえながら、僕は言った。彼女はくしゃくしゃに笑顔を作ると、僕のコールドスリープへ飛び込んできた。柑橘系の香りが、微かに鼻先をかすめた。 「うん」
僕の首根っこに両腕を回したミユの体を、同じ力で強く抱き締めた。もう二度と離れないくらいに。離さないと伝わるように抱き締めた。
「ただいま。タカヤ」