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TRANCE
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TRANCE-1

そういえば最後に海を見たのはいつだったかな。そうだ。タカヤと一緒だった日。人が少ない、月曜。あの晩も、私たちは海を見ていたはずだ。思い出した。変だな。どうして忘れていたんだろう。あんなに幸せだった一日を。瞬間を。私は馬鹿だ。あの時のタカヤの屈託ない笑顔や缶ビールを持つ長い指が、瞼の裏で点滅する。そんなはずないのに、耳元では闇を埋める潮騒や、彼の声がきこえてきそうだ。会いたい、と思う。会って、もう一度なんでもない会話とか、温もりとか、普段と変わらない日常から彼を感じたい。でも、それはもうかなうことの無い、夢でしか無い。切に願っても。願うだけ。遠くなって行く。


「つまり、そういうことです」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
無意識に触れていた顎をしゃくる手を止め、僕は目の前に立つ医師から目を外した。全身が脈打ち、軽い目眩を感じた。ツマリソウイウコトデス。耳にしたばかり医師の言葉を、頭の中でゆっくりと反復してみる。つまりそれは・・・と、首をぐるりと巡らせ、薄暗い天井から壁、デスク、ガラスとアルミで出来たような妙な機械を視線で撫でる。かすかに躊躇してから、諦めたように目を足元に落とす。そこには現実だけが転がっていた。未来型を思わせる流線形のロケット。まるでSF映画で出てくるコールドスリープのベッドみたいだ。いや。違う。これは、それそのものなのだ。
透明な特殊ガラスで遮断された中は、冷気で白く曇っていた。そして、そこには一人の女性が横たわっている。僕の恋人。ミユだ。僕はまだ、現状をうまく飲み込めずにいる。ここにミユがいて。冷凍保存されて眠っていて、しかももう目が覚める可能性はほとんど無いと聞かされても、なかなか納得出来ずにいた。それは多分、これがとても稀なケースだからだと思う。事故死、殺人、自殺などなら納得こそ今と同じように出来ないものの、恐らく理解くらいは出来るはずなのだ。でも、これは、少し、あまりに特別すぎる。
「トランス・チルドレン・・・でしたよね」 僕は、まつげまで凍らせて眠るミユを見下ろしたまま、ポツリと呟いた。ひんやりとした空気に、医師の声がうつろに響く。
「ええ。トランス・チルドレンです」
医師の胸元には、高藤と書かれた白い名札が張ってある。下は知らない。会ってまだ三十分ほどしかたっていないし、知っても意味のないことだ。彼は、ひとつため息をついた。 「あまり聞いたことのない名前だと思います」
ええ、と僕は頷く。あまりも何も、初めて耳にする。
「それは、病名なんですか?」
高藤は首を振った。
「違います。病名というよりは、人種に近い」
「人種?」
訳が分からない。ミユはどこをとっても日本人だ。二十三歳の女だ。空気から僕の苛立ちを悟ってか、高藤は弁解するようにさらに詳しく説明を付けた。
「人種とは言っても、血で分別するものではありません。肌の色、目の色、言葉、習慣、髪の色、そんな外見的なものでくくる訳ではないのです。トランス・チルドレンとは、中身、つまり心の領域を分別した時の名称なんです。もっと詳しく言いますと、あるケースの精神世界を持つ人間を主にそう呼んでいるのです」
「精神世界?性格とは違うんですか?」
「違います。どちらかというと、価値観に近い」
高藤はかぶりをゆっくりと降りながら、続けた。
「トランス・チルドレンに年齢制限はありません。生まれつきそう言った性質を持っている方から、ある時からそれを無意識にでも作り上げてしまう場合もある。ミユさんは、おそらく後者だったんでしょう」
彼が黙ると、しんとした沈黙が生まれた。
これだけ説明を受けても、やっぱり僕には全く理解出来なかった。ジーンズのポケットへ両手を突っ込んでは出してみたり、髪をかきあげては、目を虚空へ泳がせた。この事態は、僕のキャパをはるかに越えている。このままでは、頭が破裂して狂ってしまいそうだ。でも、一方ではいっそそうなった方が楽だろうとも思った。ミユはもう死んでしまった。体の機能も脳もすべて正常なのに、精神が死んでしまった。ここにあるのはきっと彼女の抜け殻なのだ。中身はもう、ここにはいない。


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