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Mirage
【純愛 恋愛小説】

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Mirage〜3rd. Seperation〜-8

「ねぇ、幸妃?」

それは、夏休みを直前に控えた頃のことだった。その日も同様に、6限目の授業終了と同時に病院行きのバスに乗り込み、日が暮れるまで美沙と過ごす予定だった。

「何や?」

僕はベッドサイドの腰掛け、肩にもたれかかる彼女の髪を梳きながら答えた。そこから伝わる質量の少なさは少なからず僕の心に何かを訴えた。わずかに伝わる心臓の脈動ともれ出るか細い呼吸音が慰めるように一定間隔で僕へと伝わってきた。

無機質な病室の白い壁には

「うちらがはじめて話したときのこと、覚えてる?」

あぁ、と僕は薄く笑った。忘れるはずが無い。運動神経はそこそこあるクセにどうでもいいところでドジを踏む、と言ったのは誰だっただろうか。とにかく、僕筋肉質で僕たちの担任の女教師と付き合っている噂の体育教師に命じられてそのドジな優等生を背負って保健室へと向かった。

「幸妃が保健委員で良かった」

美沙はくすくすと笑い声をこぼした。僕はふっと苦笑いをかみ殺した。

ぽたり、ぽたりと、美沙の腕に繋がれた点滴は秒針よりもゆっくりしたスピードで落ちていく。点滴のペースを速めればその分栄養が摂れるのではないかというのはどうせ僕の短絡的思考による産物だろう。

「リンゴでも食べる?」

会話の接ぎ穂を失った僕は、引き出しの上においてあるリンゴと、そのそばの果物ナイフに目を遣って言った。ぎらり、と鈍い光を放つ果物ナイフに一瞬目を遣り、美沙は黙って首を振った。

「もう少しだけ。もう少しだけ、このままでいさせてほしい。今だけで、良いから‥‥」

美沙は、両手を僕の肩に回し、僕の瞳を覗き込んだ。綺麗な瞳だった。難病にかかっても、どんなに痩せても、美沙の瞳の美しさは変わっていなかった。きっとこれからも変わるはずはない、と僕は思った。

そう思って、僕は美沙と唇を重ねた。

それが初めてだったわけではないし、それ以上先に進んだこともあった。けれどそれはいつのものより瑞々しく、甘美だった。僕たちは呼吸が続く限りお互いの存在を口内で確認しあった。息苦しくなればどちらからともなく離れ、お互いにはにかんではまた唇に唇を寄せた。僕のその行為を責められれば、僕はその咎を甘んじて受け入れる。それでも、僕はこれ以上美沙と離れたくなかった。もっと、もっと彼女に近付きたかった。きっと美沙もそう思っていたはず。それが思い上がり以外の何でもないと言われればその通りなのかもしれないけれど。

何回目かの口付けを終えたときに、彼女は僕から腕を引いた。

「ありがとう」

少し頬は削げてしまったが、十分に魅力的な笑顔で彼女は言った。

「でも、今日はもう帰って? もう少しで検査やねん」

美沙は引き出しの上に置かれた置き時計にちらりと目を遣り、申し訳なさそうに上目遣いに僕を見上げた。

「わかった。じゃあ、また明日来るわ」

もう少し粘ってみてもよかったかな、とは思ったが、そこは美沙の意思を尊重してベッドから立ち上がった。美沙はやっぱり申し訳なさそうに笑うと肩の前で小さく手を振った。僕も軽く手を振ってそれに応え、未練がましく病室の引き戸を閉めた。病室のドアは、ふん、とでも言う代わりにパタン、という軽い音を立てて元の位置に戻った。

その音と共に再び僕と美沙の世界が分断されたのを確認すると、小さくため息をつき、ワックスの効いた病院の廊下を歩き出した。





美沙が死んだのは、その日の夜だった。


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