瀬尾夫婦-1
瀬尾小夏はソファーの定位置に腰掛けていた。今の彼女が着ているのは、寝間着であるブルーストライプのパジャマだ。少しゆったりとしたサイズなので、彼女のスタイルの良さは抑え気味に隠れている。
時計の時刻は23時を過ぎている。小夏がここに居るのは、帰宅する夫を出迎える為だ。
「(少し言い過ぎたかな‥‥)」
小夏は浴室での出来事を自己反省していた。行為をした後にふてくされて暴言を吐いてしまったことを。
その暴言を吐かれた当事者である遥太は、今は自分の部屋で一人でくつろいでもらっている。
「(いや、でもあれは遥太くんが悪い。だって入浴中の私を無理矢理襲うようなことをして、最後だってゴムも付けないで中出しでイカせて――)」
浴室での行為を思い出すと、小夏はポッと顔を赤く染めた。
「(浴室でセックスなんて。あの人とだってしたこと無いのに‥‥)」
夫への悪びれる罪悪感はある。けれど、それを上回る充実感があった。
「(とっても気持ちよかったな‥‥)」
行為中の出来事を思い出してうっとりとする小夏は、もう一度行為を思い出そうとする。
だが、玄関先からガチャ‥‥っとドア開けて家に帰って来た帰宅者の存在に気づくと、物思いに耽るのを中断して、その場から立ち上がって踵を返す。
帰宅者――瀬尾岩之助はスリッパの足音を踏みしめながらLDKの室内に入って来た。
日焼け肌に体育会系のがっちりした体格の長身の男。体格の良さから本人曰く大学生時代にはラグビーをやっていたと訊いている。彼が着ているのは紺色の背広に、ワイシャツの襟元を結ぶ赤いネクタイだ。手に持っているブラウンカラーの革製のブリーフケース<書類かばん>は、体格のおかげでサイズがより小さく見える。
「おかえりなさい、あなた。お疲れ様でした」
「あぁ」
岩之助は素っ気ない返事を返すと、背広を脱いで小夏に手渡す。続いて、持っていたブリーフケースをリビングテーブルに投げようとして、狙いが大きく外れてフローリングの床に落ちる。
バン!と落下する音に、思わず小夏は眉をひそめる。
「はぁー‥‥!」
ため息の中に混ざる苛立ちを隠さずに岩之助は赤いネクタイを緩めると、先程まで小夏が座っていたソファーに腰を下ろしてテレビのリモコンを点けた。
そして、ニュース番組へとチャンネルを合わせた。小夏は受け取った背広のシワを軽く伸ばしながら問い掛ける。
「お風呂入ります?」
「後で良い」
そう言うと岩之助はソファーにもたれ掛かると、それ以上は会話を続けさせずテレビ画面の方へと向く。
小夏は夫の背後を見ながら、この形式だけの会話の度に思うことがある。自分は一体何の為に結婚したのだろう、と。
両親を安心させる為か?自分の幸せの為か?
夫の事は嫌悪する程に嫌ってはいないが、好きでいるかと訊かれたならはっきりと好きだと言える自信がない。
自分は婚期こそ逃さなかったが、相手は見誤った。少なくとも小夏はそう思っている。
小夏はそれ以上はその場に居たくなくて、背広を持って夫の書斎部屋まで歩いて行く。ドアの前に立つと岩之助がテレビ画面の方を向いたまま自分に向けて言い放つ。
「明日、朝食は要らんぞ」
――お前も要らんぞ。
夫はそんなことは一言も言っていないのに一瞬、そう聞こえた気がして心がチクリと痛む。
既に倦怠期の夫婦のようだ。前から何となく気づいてはいたが、改めてそれを小夏は実感した。それも何十年も連れ添ったワケではなく、まだ手で数える程度しか暮らしていない夫婦なのだからまだ変えられる筈、と淡い期待は残っている。
今までなら自分なら必死に変えようとした。それが出来ないと分かるとただ耐えるだけの日々だった。
「(でも、今の私には‥‥)」
小夏は書斎の隣のもう一つの洋室、自分の部屋に居る男子高校生に想いを馳せる。
遥太のことを考えると心が安らぐの感じる。痛みも消えた。
小夏は安堵して、ドアを開けると夫の書斎へと入って行った。