そして、初めてのお泊りへ-1
たぶん俺は、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで、あ、とかなんとかつぶやいていた。うまい返事が思いつかず、さりとてあまりいい加減な相槌も打てないような気がし、結局えらく中途半端な声しか出せなかったんだろう。
「んんんー、ふあぁぁぁ」
後部座席でしのちゃんがあくびし、両手が、ご、と天井に当たる音がした。目を覚ましたしのちゃんが伸びをしているのがルームミラーに映る。
「あ、しの、起きた?」
「うん、起きた。のどかわいたー」
「えー、ママ紅茶全部飲んじゃったよ……お兄ちゃん、あのコンビニで停められる?飲み物買ってくる」
交差点の角にある、コンビニワープされそうな駐車場にミラージュを停めると、さおりさんはスマホを手に店内へ入っていった。シートベルトが巻き取られる、しゅるる、という音に続いて、ばこ、と後部ドアが開く。さおりさんの後をついていくのかな、と思っていたら、助手席のドアが開いてしのちゃんが乗り込んでくる。
「ふへー、あたし寝ちゃった」
そう言いながらシートに座ったしのちゃんは、俺の方を向いて顎を上げ、目を閉じて唇をすこしだけ開いた。反射的に車の周囲を見渡す。駐車場には誰もいないし、さおりさんはまだ店内にいるのが右のサイドウインドウとコンビニの窓ガラス越しに見える。
俺は左に体を捻って、しのちゃんの左肩に右手を添えるようにして唇を合わせた。しのちゃんの息臭と唾液を吸う。寝起きの8歳の幼女の息臭、いつもよりややねっとりとした唾液。俺にとってこの上ない甘露が、しのちゃんの乾いた唇を伝って流れ込んでくる。しのちゃんの匂い、しのちゃんの味、しのちゃんの温もり。この小さな身体の、小学2年の幼女との車中キス。「こいびと」だけに許された甘美な瞬間のひとつ。
唇を離すと、しのちゃんは目を閉じたまま、ふへー、と笑った。
「今日ずっと、お兄ちゃんとキスしたいって思ってた」
「俺もだよ」
目を開いたしのちゃんと見つめ合う。家デートでは何度も唇を重ね、互いの裸を見せあい何ならペッティングまでしているけれど、外でキスしたことは、公園のトイレの中ですらもなかった。公園のベンチやショッピングモール、山や電車の中なんかでそうそう大っぴらにキス ―まして8歳の幼女と唇どうしで― などできるもんじゃない。中学のときにごく短期間付き合っていた亜季ちゃんとのキスだって、放課後の体育館裏というウルトラベタな場所だったし。
もう一回キスしたい。そう思うと同時に後部ドアが、ぱこ、と開く。
「あら、しのそっち行ったの」
さおりさんがそう言いながらリアシートに乗り込む。うん、と返事したしのちゃんが、俺の顔を見ながら声を出さずに笑う。秘密を共有する笑顔、ってやつだ。
「しの、はいこれ、100%のりんごジュース。お兄ちゃんはこれね」
さおりさんが差し出す紙パックのりんごジュースとCCレモンのショート缶を受け取り、飲み終えていたコスタコーヒーのペットボトルをコンビニ袋を広げたさおりさんに渡す。コーヒーばっかじゃ飽きるから、と違うものを買ってくれる気遣いが嬉しい。
ミラージュを発進させる。さっきよりかは幾ばくか交通量が減って流れているバイパスに戻ると、カーオーディオからサイダーガールの「エバーグリーン」が流れ始め、いつの間にか俺のウォークマンの操作方法を覚えたしのちゃんが早いBPMに合わせて頭を振りながらりんごジュースをストローで吸っている。器用だな。
「お兄ちゃん、夕ご飯うちで食べていってね。ビーフシチュー作ってあるんだ」
「あ、いいんですか?ビーフシチュー大好きです」
「やったぁー、お兄ちゃんといっしょにごはんー」
喜色満面のしのちゃんの口からりんごの甘酸っぱい香りが漂う。現金なもので、夕食なに作るかを考えなくていいとわかったとたん腹の虫が鳴き始めた。時刻はもうすぐ七時半。昼はダブチとポテトとコーヒーだけ、午後はアルカリマンガン電池で動いているような小学2年生に引っ張られてアウトレットモールを縦横無尽。そりゃ腹も減るわ。
空港線に沿う道路を走り、途中ガススタで給油してファミレスと酒屋がある角を右折すると、さおりさんのアパートへ俺の家とは反対側から行ける生活道路に入る。もう長いことシャッターを上げてないっぽいクリーニング店の前を過ぎると左側が少し開いていて、そこがさおりさんのアパートの駐輪場だ。ハザードを焚いてミラージュを停める。
ショッピングバックを荷室から出してしのちゃんとさおりさんに渡す。
「お兄ちゃん、車ってどこに返すの?」
「駅前通りのコインパーキングです、郵便局の隣の」
「私としの、お風呂いただいちゃうから、ちょっとだけゆっくり帰ってきてね、ごめんね」