そして、初めてのお泊りへ-3
「しのちゃん、おやすみ」
「うん、おやすみなさい……お兄ちゃん」
わかってるよ、しのちゃん。軽く開いたしのちゃんの唇に俺の唇を合わせる。目を閉じたまま小さく笑ったしのちゃんは、唇が離れると同時に寝息を立て始めた。コンディショナーの香りが残る髪と柔らかな頬をそっと撫でる。いつまでも見つめていたい、幼い女の子の寝顔、そして「こいびと」の寝顔。平穏と充実。
しのちゃんの頬にもう一度キスしようと身を乗り出しかけた瞬間、ドア越しにトイレのフラッシュ音が小さく響いた。心残りを感じながら立ち上がり居間に戻る。さおりさんが台所へ向かいながら
「お兄ちゃんが買ってきてくれたワイン飲もうよ」
と言うのにうなずきながら食卓に掛けた。ワイングラスないからこれで、とさおりさんがテーブルに丸っこいビアグラスと三角形のチーズを並べる。
ワインを飲みながら、今日のドライブや買い物のことで話がはずむ。三百円ショップでクリスタルの小物入れを選ぶしのちゃんの表情が勉強しているときよりも真剣だった、という話からさおりさんが、勉強も学校も嫌がらずにいてくれるけれどもなかなかお友達が増えず、さおりさんの仕事場が自宅から電車の距離というのも可能であれば解消したい、とつぶやいた。
「離婚直後って、けっこういろいろ慌ただしくってね。仕事探しとか引っ越しとか、ゆっくり検討する時間はなかった」
しのちゃんが眠っているベッドの方を見ながら、さおりさんがビアグラスを傾ける。
「それでも私は運が良かった。人には恵まれたし、仕事も、まあそりゃ大変なときもあるけど、基本的には楽しい、資格も技術も活かせる。でも、しののことを考えるとね……」
ビアグラスをテーブルに置き、小さくため息をついて、俺の空いたビアグラスにワインを注いでくれる。
「お兄ちゃんがしのの『こいびと』になってくれたから、一人で過ごす時間も減ったし、なによりもさびしさが解消された。一緒にいてくれたり、そうじゃないときでも自分にはママ以外に頼っていい存在がいる、という事実は、あの子にはとっても大きな支えになっている」
さおりさんの目にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「しのの貞操だけは心配だけど」
たぶん俺は赤面している。
「え?キスだけでしょ?」
「え、ああ、あ、はい、そうです」
「ほんとうかなあ……まあ、しのの身体じゃまだ無理だよねちっちゃいから」
くい、と、ビアグラスを傾けるさおりさんの目尻は優しい。
「まあ、そこはお兄ちゃんを信頼してて、あんまり無茶なことはしないだろうと思ってるから……そういうお兄ちゃんとしのを引き離したくないのよ。こういうのって、損得勘定みたいにメリットデメリットで割り切れることじゃないのね。私も……」
ビアグラスを右手に持ったまま、さおりさんの動きと言葉が止まる。十秒くらいそのままでいたさおりさんは、また小さくため息をついた。
「……私も、好きだった人と別れたでしょ。理由はいろいろあるんだけど、私の本音は別れたくなかった。けど、私ではどうにもならないこともあってね。あんな思い、しのにはさせたくない。夫だった人も、私のことはともかく、しのとは離れたくなかったはず。お兄ちゃんだってそうでしょ」
「……はい」
「あ、なんか押し付けがましい言い方になっちゃったかな、ごめん、そうじゃないのよ」
「あ、わかってます、はい……でも」
ビールと白ワイン。ビーフシチューで満たされたお腹。いつもならまあまあ酔っているだろう。いや、今だって軽く酔ってはいるけど、俺の前頭前野がここは真面目な話を可能な限り素面に近い状態でする状況だ、と司令を出している。
「さおりさん、本当はやってみたいんですよね、オーナーシェフ」
「うん、まあ、それは、ね……でも車の中でも言ったけど、これからだってまたチャンスはあるだろうし」
「宮古のお店の話って、どのくらい聞いたんですか?先方の人と話したりとか」
「うん、まあ。電話だけだけどね」
「あ、そうなんですね……でも、一度会ってみたらいいんじゃ」
「え、でもそんな積極的じゃないのに?」
「会ってお話して、お友達になるだけでもいいんじゃないかと思うんです。その方って、別にいますぐ引退したいということでもないんですよね。さおりさんみたいな人が味方になったら、元気になってお店続ける気持ちになるかもしれないですし」
さおりさんが、顔をくしゃ、っとして笑う。
「味方、かあ……しのにとってのお兄ちゃんみたいな?」
「はい」
「うーん」
さおりさんが、今度ははっきりと口を開いて笑った。ホワイトニングや矯正や差し歯をした気配のない、けれどわりあいに端正に整った歯並びが唾液で濡れて光る。普段ならここで半勃起が始まりそうなものだけど、前頭前野はノーゴー反応を求め身体はそれに応えている。
「なるほどなあ……まあ、そうだね。人間関係を作っておいたりはしたほうがいいかもね。オーナーの顔も立つし」
さおりさんが、何かを考えるように小首をかしげ、小さくうなずく。
「ね、お兄ちゃん、もし私が宮古島にその人に会いに行ったら、その間しのの面倒見てくれる?まあ、行ったとしても一泊だと思うけど」