Drive on Saturday-4
「小2の娘に彼氏ができて、うん、今だからもうお兄ちゃんのことは彼氏として信頼してるけど、最初わかったときはもう、驚くなんてものじゃなかったのよ。同じクラスに好きな子がいる、くらいなら想定できるけど、デートしている相手がいる、それも相手は成人でしょ」
ペットボトルの紅茶花伝ミルクティーを飲んで、さおりさんがふぅ、と息をつく。左側からほんのりと、ホットミルクティーの甘いミルク臭が漂ってくる。
「私もはじめての体験で、どう対処するのがいいのかわからなかったけど、まあ、いちばんに思ったのはしのの安全かな。その次が、しのの気持ち。その人といることがしのにとって幸せなことなのかどうか、それも、たとえば欲しい物を買ってくれるみたいなことじゃなくて、精神的なことでね」
夕暮れの東方面への車線が、直線でもときおりエンブレが必要なくらいに交通量が多くなってきている。
「しのってね、もともと食の細い子だったの。それがお兄ちゃんと出逢った頃から食べるようになってね。学校も、相変わらず友達は少ないけど、以前よりは前向きに通学してるっぽい。宿題もちゃんと自分からやってくれるし」
前を走る初心者マークが貼られたフィットのブレーキランプが灯り、それが暗くならないので渋滞が始まったのだとわかる。サイドブレーキを引くとエンジン音が静まり同じタイミングで藤井風がフェードアウトする。
「ぜんぶ、お兄ちゃんのおかげだなぁ」
さおりさんが、今度ははっきりと俺の方を向いてそう言った。
「しのは幸せだね、こんなに素敵な彼氏に愛されて」
「や、そんな、俺、その」
他人からポジティブに言われることに慣れていないから、さおりさんの言葉に赤面してしまう。とまどいと照れと、一抹の負い目と。
「本当だよ。前の学校ではすっごく仲のいいお友達もいたし、保育園にも大好きな先生がいたし、父親のことも好きだった。でも、今のしのがお兄ちゃんに寄せる気持ちってそれら以上だと私、感じてる。子供に必要な、なんていうのかな、父性とか友情とか愛情とか、そういうの、お兄ちゃんからいっぱいもらえてるんじゃないかな」
胸が詰まる。俺、そんな立派なやつじゃないですよ。確かにしのちゃんのことを心から愛してます。けど、しのちゃん以外の女の子で射精することもあるし、こないだなんてさおりさんの……まあ、絶対に言えないけど。
「やっぱりよかったな。あの話断って」
紅茶花伝をこくん、と一口飲んで、さおりさんがそう言いながら小さくため息をつく。
「あの話、って……なんですか?」
さおりさんが後部座席を振り向く。くぅー、くぅー、と寝息を立てているしのちゃんを見て、正面に向き直ったさおりさんは紅茶花伝のフタを閉めながら続けた。
「うん、オーナーからね、お店持たないか、って話があったの。宮古島で」
「……え」
後ろのタクシーがクラクションを短く鳴らす。いつの間にか走り出していたフィットとミラージュの間には三台分くらいの車間距離が空いていた。サイドブレーキを解除し、そろそろとアクセルを踏む。
「オーナーってもともと沖縄の人なんだけど、そのころからお付き合いがある人がね、宮古で飲食店、海産物がメインのレストランを経営しているんだけどもうお年を召していて引退を考えているんだって。でも常連さんや観光客からの評判がいいから、誰かお店を継いでくれたらな、って思ってらっしゃるらしくて、それでオーナーに相談があったんだって。そしたら私が調理師免許持ってるし、大学でも飲食店経営学も一応履修したから、できるんじゃないか、って、紹介してもらったんだけどね」
斉藤和義がギターで力強くパワーコードを弾く。懐かしいー、これポンキッキーズだったっけ。さおりさんが子供みたいな笑顔になる。
「私もオーナーシェフには興味があったし、しのもこっちの学校に馴染めていないから、いいきっかけかな、とも思ったんだけどね」
「俺も、そう思いますけど……」
「でも、宮古島へ引っ越したら、お兄ちゃんがしのに会えなくなっちゃうでしょ」
「うちの便も飛んでますし、休み取って頻繁に会いに行きますよ」
「うーん」
Aメロが終わって、イントロと同じコードのギターが響く。
「しのにとって、日常的にお兄ちゃんがいてくれている、っていうのが大きいと思うよ。私が仕事で家にいなくてもお兄ちゃんのところへ行けば寂しくない、とか、もっと大きなくくりで、絶対的な自分の味方がいつも身近にいる、とか。だから今のしのは幸せなんだと思う。それを壊したくないな、って」
さおりさんが、ちら、と、サイドウインドウからすっかり日が落ちた街並みに目をやる。路肩から発進しようとしていた路線バスに先を譲ると、ハザードを焚いたバスが加速した上空で黄信号に変わってブレーキを踏む。俺やさおりさんの家がある街へ一直線に繋がるバイパスと国道がぶつかるこの交差点、なぜか国道側が信号長いんだよな。
「まあ、私は今の仕事も結構楽しくて、オーナーも怡君ちゃんもお客さんもみんないい人ばかりで、特に不満もないしね」
「でも、オーナーシェフやってみたいんですよね」
「……うん、まあ、ね。でもチャンスはまたあると思うし。その頃にはしのも大きくなって、お兄ちゃんと結婚してるかな。そしたら私、やりたいことやらせてもらうかも」
変わった信号が、さおりさんの顔をほんのりと緑色に染める。
「それはそうとして」
バイパスは国道よりも車が多くて車線が少ない。ほぼほぼクリープでゆっくりとコンビニの配送トラックについて行く。また後部座席のしのちゃんが眠っていることを確かめたさおりさんが、アウトロのドラムの音にかぶせるようにして小声で言った。
「しのとは、どこまで進んでるの?」