糸の色-2
「ねぇ、運命って信じる?」
なんの脈略もなく言ったあきの言葉に、宏はいかにも意外そうに「はぁ?」と言った。帰りの車内でのことだった。
二時間の残業を終えて、やっと仕事から解放された宏は、海に行きたいというあきを乗せて、車を運転している最中だった。
「なにらしくないこと言ってんだよ。ラブロマンスの映画でも見て影響されたか?」
くわえタバコで宏が言う。予想どおりの反応に、あきは怒りを通り越して悲しくなった。そのまま何も返事をせず、顔をそむけた。
ふたりが恋人になって、まもなく三年になる。
会社内で恋愛を禁じているわけではないけれど、宏の希望により社内では秘密にしている。私情を持ち込むと仕事がしづらい、というのが理由だ。
そんな宏なので、仕事中はたとえ休憩中であってもあきにメールをすることはなく、あきはそれをしぶしぶながらも承知していた。
だから、今日のように仕事の後そのまま一緒に出掛けるのは、とてもめずらしいことだ。
いつもとは違うあきの行動を、宏は見逃さない。そのたびに、面倒がらずにあきの欲求どおりにしてきた。
今日も、仕事の後に見たメールで、宏はあきの異変に気がついていた。
信号が赤に変わると、車は緩やかに速度を落とし、停止線の手前で止まる。
無言のふたりの前を、ゆらゆらと白い猫の絵が歩いてきた。信号を渡る老夫婦のものだ。腰の曲がったおばあさんにおじいさんが寄り添い、背中に腕を回している。その手に持っている紙袋が、ちょうどふたりの少し下の目線を左右に揺さぶられながら移動しているのだ。
その老夫婦の後姿を、あきと宏は無言のまま見つめていた。
やがて眠そうな表情の白い猫の絵とともに、老夫婦は夜の闇に消えていった。
「運命って、世間ではいろんなシーンで使うよね。ロマンチックだったり、逃げられないさだめのときだったり。私ね、運命ってあると思うの。生まれる前から決まっていた道みたいなもの。さっきのおばあさんたちも、あんなふうに手をつないで歩けるのは、お互いに運命の人だったからなのよ、きっと」
「運命ねぇ。それじゃおまえは、これからもその決められた道に沿って生きていくのか?運命とやらで決められた、死ぬその日まで」
タバコを灰皿に押し付け、火を消しながら宏は言った。
「う〜ん、ちょっと違うかな。今まで生きてきて、節目節目にあった人生の分かれ道で選んだことは、自分で考えて決めたようで、実は運命に沿っていたんじゃないかな、てこと。そうなるように、自分の性格が作られていったの。よくも悪くも」
―私があなたと付き合っているのも、運命だったからなんじゃないかな−
そう、言おうとして口をつぐんだあきは、付き合い始めたときに宏と繋がっているように思えたその糸の色は、赤くはないような気がしていた。
そもそも、宏が何故自分と付き合っているのかさえ、わからない。好きだ、というようなことは、一度も聞いたことはなかった。
宏はすぐには何も言わず、無言で車を走らせている。車のなかは静寂に包まれた。
「過去に左右されるのは馬鹿らしい。運命は常に自分で切り開いていくものだ」
宏が力を込めた声で、静かに言い放った。
外の景色を見ると、いつのまにか街を抜け、街灯がほとんどない田舎道を走っている。
あきの脳裏を、化粧直しを終えた百合の顔が横切った。宏と百合はどこか似ているのだ、と思った。しっかりと未来をみつめ、努力で道を切り開いていく力強さが、ふたりにはある。
あきの心が重くなった。宏が運命を切り開いた将来に、隣にいるのは自分ではなく百合なのではないか。そう思えて仕方ないのだった。