ふたつのツーショット-3
ホームドアと、少し遅れて電車のドアが開く。電車に乗ったさおりさんが俺を振り向いて笑う。
「なに固まってるの、ほら、乗らないと」
俺の愛想笑い、たぶんこの足取りと同じくらいギクシャクしてんだろうな。
「ごめんごめん、私カマかけちゃった。ほら、しのはそういう話を全然してくれないから。でもお兄ちゃんって、正直だよね」
オレンジのモケットのロングシートに並んで腰掛けたさおりさんがおかしそうに言った。
「……なんか、その……」
ギクシャクしてるのは声もだ。
「ん?」
「……なんて言っていいかわからないんですけど……」
「ふふ。まあ、母親としてはちょっと複雑だけどね。でも、こないだも言ったみたいに正直に話をしてほしいし、そうやって三人、お兄ちゃんとしのと私の信頼関係をもっと強くしていきたい。安心したいの」
「はい……」
「そうだ、明日はしのとどこか行くの?」
「あ、ええ、日曜日だから、獅子神山に登ろうかって」
JRに乗り換えて三十分くらいで行ける標高650メートルの獅子神山は、このあたりの小学生の遠足や家族連れのハイキングの定番地だ。学校では奇数学年が獅子神山へ遠足に行くから来年までお預けだ、とぶーたれていたしのちゃんに秋になったら連れて行ってあげる、と約束していた。
「ほんと?じゃあ、私お弁当作ってあげる」
「あ、でも、朝早めですよ」
「ちょうどいいの、私も明日は午前中から喫茶店に行くから」
「大変ですね」
「うん……まあ、ね。でも」
さおりさんが真面目な顔になる。
「今は、精神的にはかなり楽になった。お兄ちゃんがいてくれるから。やっぱり一人で家においておいたり、友達が少ないっていうのはいろいろ心配があって」
ふぅっ、と、ほのかなワインの香りと柔らかくて甘い香りが微風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。電車の揺れに合わせて、さおりさんの顔とブルーのカットソーを着た身体が俺に近づく。
「改めて、しののことよろしくね、お兄ちゃん」
さおりさんの顔を正面から見る。優しげな微笑み。しのちゃんとよく似た目尻や顔の輪郭。はい、と、俺ははっきり、さおりさんの目を見ながら言った。
獅子神山の登山コースは六合目辺りから勾配が急になる。丸太を地面に横に埋めて作った簡易な階段を踏みしめる両足が、段数を数えるごとに徐々に素直に上がらなくなっていく。合わせて息も切れていく。やべえ、26歳の体力じゃねえ。寒くなるまでの間、空港までチャリで出勤しようかなマジで。
俺の七段くらい先を軽快なステップで登っていたしのちゃんが振り向いて、両手を俺に向けて伸ばす。
「ほらあ、がんばって。ゆっくりしてると置いてっちゃうよ」
JRの乗り換え口で一瞬俺とはぐれて、どっち行っていいかわからなくなってベソかきそうになってたの誰だよ。とは思っても口に出せず、そろそろ痛みを抱え始めた太腿を気合で持ち上げる。大学生っぽい四人組が軽やかに俺を追い抜いていく。くそ、四年くらい前までなら俺だって獅子神山くらい余裕だった、はずだ。
しのちゃんが、くるん、と山頂方面を向き、たった、と歩き出す。パープルのキッズリュックが小刻みに揺れる背中、デニム地のキュロットから伸びるすらっとした8歳の両足。ピンクと白のハート柄があしらわれた、黒色でふくらはぎのやや下までのソックス。つい見とれて、キッズリュックの背中がどんどん小さくなる。ああ、置いてかないでぇ。
八合目あたりからは、しのちゃんに手を引かれながら登っていた。その全体が俺の手のひらに収まってしまうほど小さいしのちゃんの手がくやしいけれど頼もしい。
しのちゃんの小さな手。昨日の怡君さんの話が蘇る。俺、いつかしのちゃんと結婚するんだろうか。この小さな手が成長して、幼女から少女、思春期を経て大人の手になったとき、俺としのちゃんはどうなっているんだろう。ずっと、しのちゃんを守り続けていけるだろうか。この小さな手、俺のおちんちんを優しく包んで手コキしてくれた小学2年生のしのちゃんの手……って、この穏やかな休日のハイキングにふさわしくない形容だな。
やっとの思いで頂上に到着する。はるかぜ公園よりも一回り狭いくらいの広場の中央にある山頂碑の傍らにしゃがみ込む。ひい、汗も疲労も仕事の比じゃねえ。これ、マジで体力つけないとな。いざというときにしのちゃんを守れないぞ俺。
「えー、もしかしてお兄ちゃん、つかれちゃったの?」
しのちゃんのからかうような声が上から降り注ぐ。俺の前に立っているしのちゃんの素足の両脛に生えた産毛が爽やかな山風に小さくなびく。
「あ、うん、ま、まあ、ね。それより俺、のど乾いたおなか空いた」
膝で両手を支えるようにしてよろよろと立ち上がる。ふらついたふりをして、しのちゃんの両肩をぎゅっ、と抱きしめる。
「もー」
唇を尖らせて、でもまんざらではないような口調のしのちゃん。かわいい。恋愛感情と父性本能とが混交された、愛情としか言いようのない感情が胸に満ちる。思わずしのちゃんを抱きしめそうになって慌てて自重する。ここは日曜日の山頂、まわりには平和な家族連れがいっぱいいる。
広場にいくつも設置されている木製のベンチのひとつに、しのちゃんと並んで腰掛ける。視界の正面には、麓の農村と五キロくらい離れた場所にある小ぶりな山脈が一体になった光景が広がる。
「見てお兄ちゃん、あっちの山きれい」