リーフェンシュタールの結婚(前編)-10
リヒター伯爵が強い眠気を催し、起きていられる時間が短くなり始めたのは、ローマン王が崩御する少し前あたりからであった。
ヘレーネは辺境で村が焼き討ちされていた時期と一致することを、アルテリスから話を聞いていたので気がついた。
「それで伯爵様は、ランベール王と王位継承を張り合うことを遅らせるために、全伯爵の承認を取りつけるまで動かないと条件をつけたのですね」
「その通りだ。戴冠式に眠り込んで倒れていたり、王の宣誓が寝言の国王など誰も望んではおるまい。国王の代行として実権を握りたい宮廷議会の貴族たちにとっては、大変ありがたい国王陛下かもしれぬが」
「レチェを玉座に座らせておくほうがましです」
「ヘレーネ、私もその意見に同感だ。それにしても、眠気がこれほどすっきり取れている感じはずいぶん久しぶりだ」
「申し訳ありません。また3日もすれば眠気に襲われ始めるでしょう」
「そうしたら、またレチェが鼻を舐めて起こしてくれるのであろう?」
リヒター伯爵は寝台の上で上体を起こして、レチェを撫でながら話している。
「伯爵様はネコがお好きなのですか?」
「ふむ、気まぐれなところがなんともいえぬ。それにネコは自分が人の飼い主だと思っている気がする。まるで、女性のようだと思わないかね?」
リヒター伯爵が皺だらけの顔でヘレーネに目を細めて笑いかける。
「私があと20年いや10年若ければ、ヘレーネほどの美女で、ネコまで連れておれば、側室ではなく正妻に迎えるのだが……老いというものは、さみしいものであることよ」
「伯爵様、見た目は老いても女というものは、ずっと女のままなのですよ」
「女とは不思議なものだと、今でもまだ思うのだよ。見た目は子供でも、心はすでに女なのも不思議に思う」
「ふふっ、伯爵様、女から謎をとってしまったら、何も残りませんから」
リヒター伯爵とヘレーネがたわいのない雑談をじゃれあうようにしていると、寝室の扉がノックされた。
「ヘレーネ、扉を開けてくれないか」
廊下には、ヘレーネを案内してきたメイドの若い乙女が立っていた。
「おお、エマ、おいで」
「伯爵様っ、よかった……ふぇえっ……」
リヒター伯爵が抱きついて泣いているメイドのエマの背中を撫でながら、ヘレーネにウインクしてみせた。
レチェはメイドが小走りに近づいて抱きついてきたので、あわててヘレーネの足元へ逃げて来ていた。
ヘレーネは軽く一礼すると、レチェを連れて寝室から退散した。
その日の夕食は、リヒター伯爵、リーフェンシュタール、客人のザイフェルトとヘレーネが食堂で同じテーブルにそろっていた。
リーフェンシュタールは、久しぶりに父親の笑顔と機嫌の良いおしゃべりを聞いて、とても驚いていた。
ヘレーネとのキスの気まずさがあり、自室で食事を済まそうと目を覚まして考えていると、満面の笑みを浮かべたメイドのエマが、伯爵様が一緒に食事をするから身なりを整えて来るようにという伝えると、スキップしそうな上機嫌で退室したので、何事だと首をかしげた。
「伯爵様の邸宅にはお仕えする人が、無駄にたくさんおられないのですね」
「リーフェンシュタールの母親は、人が多いのが好きではなかった。それに、お坊っちゃまと呼ばれていた頃の子爵様は母親似で、たいへん人みしりであられたのでな」
「子爵様は母親似なのですね。伯爵様、ドレスまで用意していただき、お食事にお招きいただけるとは思っておりませんでした。感謝致します」
ヘレーネは背中が大きく開いているが、胸元はおとなしい感じの紫色のドレス姿である。
「やはり、若い女性が客人にいると華やかでいいものだ。リーフェンシュタールの母親のドレスで申し訳ない」
「ドレスを着るのは久しぶりなので、ザイフェルト、おかしくありませんか?」
「綺麗です、ヘレーネ様」
ぶっきらぼうな言い方だが、ザイフェルトか女性に綺麗と言うのを聞いて、リーフェンシュタールはまた驚いた。
パルタの都にいた時も無口な男で、カルヴィーノがおしゃべりに感じるほどだった。女性に気を使ってお世辞を言う性格ではないのは、リーフェンシュタールはよくわかっている。
「ベルツ伯爵が、よく出奔を許したものだな。リーフェンシュタール、そうは思わないか?」
「父上、今宵はずいぶんお酒を美味しそうに飲まれてますね。たしかに、女性で一人旅とはよく許したと私も思います」
「リーフェンシュタール、そちらの御仁はヘレーネの旅の連れではないのか?」
「たまたまトレスタの街に来る時に、ザイフェルトと再会したようです。ザイフェルトには以前から私のところへ来るよう誘っていたのですが、伯爵の御令嬢が一緒に訪れるとは驚きました」
「一人旅ではありません。レチェを連れております」
「たしかに不思議なネコなのは間違いない。それは私も認める」
ベルツ伯爵が王都の名門貴族たちに、ヘレーネが17歳の頃、本妻に迎えないかと連絡したが、側室になら迎えたいという返事しかなかったことをリヒター伯爵に話した。
「肌の色や髪の色が目立ちすぎるので、名門貴族の本妻にはふさわしくないと判断されたのでしょう。妻妾でもつながりを持つなら同じではありませんか、と言っても父上は本妻でなければと譲らず、婚期を逃したのでヘレーネの好きにしても良いが、戻りたければいつでも帰って来るようにと言って、しぶしぶ私を送り出しました。私は旅に出ますと言い続けていましたが、なかなか許してもらえませんでした。私の母上はベルツ伯爵の妻妾でしたので、正式には御令嬢というのは微妙なところです。それに出奔中の身の上ですので、身分を持たない気軽な立場を満喫しております」
「はははっ、身分を持たないことは身軽であるか」
ザイフェルトは黙って、ヘレーネとリヒター伯爵の会話に耳を傾けている。地主の立場を追放された時、ザイフェルトには少し不安もあった。