第三話 契約の罠-1
3月25日金曜日の夜、仕事帰りの地味なパンツルック姿の芽美はK駅の改札を出てスマホを片手にアプリの道案内に従い歩きだす。時刻は午後7時を過ぎていた。
拓海の事務所はK駅から徒歩15分ほどの繁華街のはずれに位置する、地下2階・地上6階立ての雑居ビルの5階にある。地下2階は駐車場。地下1階にはアダルトグッズ店と風俗店。1階から3階まではコンビニのほか、カラオケボックスや居酒屋、ラーメン屋、スナック、昭和を感じさせる古めかしい喫茶店などのテナントが出店している。
金曜日の夜ということで、一階のエレベーター前には、仕事終わりのサラリーマン達が酒とタバコの匂いをさせながら大勢たむろしていて騒々しい。しかし、エレベーターで4階に上がると、そのフロアは何をやっているのかわからない会社や個人事務所、セカンドハウスに使われている賃貸部屋だけで、しんと静まりかえっている。
このビルにはエレベーターと階段、緊急用の非常外階段があるが、エレベーターはビル利用者の利便性に配慮して通常は4階までの運行、右隣の階段も4階までしかなく、4階から5階に行くには、エレベーターを降り左奥にある別の階段をさらに昇らねばならなかった。
階段を昇り「有限会社点睛企画」と表示された曇りガラス仕様のドアの前に立ち、インターホンを押す。10秒ほど待ったところで、カチリと鍵の開けられる音がして内側にドアが開く。そこには金髪碧眼の背が高くグラマーな外国人女性の姿があった。
「メグミ様ですね、お待ちしておりましタ。代表はまだ仕事が終わらないので、こちらで軽食をとりながら待っていてください、とのことデス。」
てっきり英語か、片言の日本語が聞こえてくるかと身構えていた芽美には、その流暢な日本語が一瞬理解できなかった。硬直したまま5秒ほど考えて内容を理解すると、イ、イエスと英語で返答をして中に入った。
「芽美ちゃん、ずいぶん待たせてしまったね、申し訳ない。」
3人が並んで座れるような幅の広いソファに座り、紅茶を飲みながらフライドチキンを摘んでいた芽美の前に奥の扉を開けて拓海が現れたのは、もう夜の8時になろうかという頃だ。
「大丈夫ですよ、ナターシャさんがお相手してくださってましたから。ロシアティーって美味しいですね。もう2杯もいただいてしまいました。」
芽美が飲んでいるのは、ジャムを入れブランデーを数滴垂らした紅茶。日本ではいわゆるロシアティーとされている。ブランデーのせいか、芽美の頬は赤みが差している。
「ナターシャは紅茶を入れるのが上手いからね。本場ロシアではジャムを舐めながら飲むんだが。ブランデーも好みで入れるし。じゃあもう二人を紹介する必要はない?」
「はい、もうすっかり仲良しですよ。ね、ナターシャさん?」
「そうですね、メグ。」
「という感じです。それにしても、こんな美人さんが秘書だなんて羨ましーい。仕事が捗りそうですね〜。」
「秘書というか、僕はどうしても昼間出歩くことになるから、その間のお留守番や書類作成とかの事務作業を週3日だけお願いしてるんだ。彼女は他にも仕事が・・・っと、ナターシャ、そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」
「そうね、マスター。二人のハジメテの邪魔をしたくないし。頑張ってね、メグ。」
ナターシャはそう言って芽美に軽くハグすると手早く身支度を整え、外にでてドアに鍵をかけ営業中の札を裏返し風のように去っていった。ナターシャの発言内容に顔を赤らめた芽美がどう反論しようか悩んでいる隙を突いて。
「日本語が流暢なことにもびっくりしましたけど、あんなに綺麗なのに風俗で働いているなんて…」
「そんなことまで聞いたんだ、芽美ちゃんはずいぶん気にいられたみたいだねぇ。」
「『タクミの彼女ならワタシの妹も同然!』て言ってました。本当の彼女じゃなくて、フリをするだけだって言っても理解してもらえなくて。帰るときだって『二人の初めて』とか・・・まるでこれから初夜を迎えるみたいじゃないですかぁ。」
「ははは。日本語の発音は外国人にとっては簡単だから。ナターシャは日本語を大学とかでちゃんと勉強したわけじゃなくて風俗の仕事をやりながら覚えたから、知ってる言葉もそっち系に偏っていてね。頑張って覚えたんだから許してあげて欲しいな。」
「そうなんだ。まだ借金もかなりあるみたいだし、大変そうですよね。」
「それでももう少し頑張れば、借金返済が完了する目処が立って、だいぶ明るくなったんだよ。ただ仕事柄どうしても日本人の普通の女の子の友だちができなくてね。芽美ちゃんには是非友だちになってあげて欲しいな。」
「なるほど、今日は私をナターシャさんにあわせるために、ここに来させたんだ?大丈夫、もう友だちになりましたから!ナターシャさん、拓海さんにとーっても感謝してました。『タクミのためなら何でもする』って真剣な顔で言ってましたよ〜。いったい何をしてあげちゃったんですか?ユーたちもう結婚しちゃいなよ、ヒューヒュー!」