プロローグ〜共謀する男女〜-1
その年も残すところあと数日となった師走の平日の夕暮れ、とある都内の高級ホテルのバーカウンターの隅に働き盛りの男と妙齢の女が1つ席を空けて座り、別々に飲み物を注文した。男はエル・ディアブロ、女はブルームーン。両方とも食前酒としては強すぎるカクテルだ。他に客はおらず、バーテンダーは雰囲気を察して反対の隅に移動し、曇りひとつないグラスをさらに丁寧に磨きはじめた。
目の前に置かれた酒には二人とも手をつけずに時が過ぎていく。感傷に浸ってでもいるのだろうか。やがて女のほうから口を開き、ポツリ、ポツリと会話を始めた。二人ともグラスに視線を固定したまま。まるでお互い別々に独り言をつぶやいているかのようだ。
「ねえ、本当にやるの?」
「もちろんだ」
「あの女と彼女は全くの他人なのに?」
「いや、そんなことはない。二人は親子だよ、実のな」
「突然何を言うかと思えば・・・変な妄想はやめて頂戴」
「いや俺も驚いたが事実だ。苦労して調べてみたが、どうやらこういうことらしい」
男は女に調査結果を告げる。
「そうだったのね」
「というわけで、協力してくれるな?」
「一体なんのためにやるの?」
「復讐だよ」
「あの子に罪はないでしょう?」
「そうだな」
「・・・復讐というより、自分のプライドを満足させるためじゃないの?」
「そうかもな。だがどうでもいいことだ、やることは変わらないのだから」
「はぁ、本当に実行するのね」
「だからそう言ってるだろ。こんなふうに出会うとは運命としか思えん。それにもう準備にかなりの金を使ってしまった。後戻りはできない」
「準備って、あの部屋とか?たしかにお金掛かってそうだったわね」
「いや他にもいろいろと、な」
「随分気合が入っているわね」
「当然だ、運命だからな」
「運命なんて人間の都合の良い思い込みにしか過ぎないと思うけど、協力はするわ」
「恩にきる」
「よしてよ、今更。むしろ今こそ借りを返して欲しいって思ってるくせに」
女は、頬を赤らめて視線を泳がせ、照れ隠しにグラスを手にする。だが、口をつけずにグラスを置くと視線を男の左頬に向け、席を詰めて耳元で囁いた。
「でも大丈夫なの?あのあとから、その・・・普通のセックスはできなかったでしょう・・・?」
「今は全く問題ない。確かめてみるか?」
「そうね、大事なことだし。」
「ブルームーンを飲んでいる女のセリフとは思えないな。部屋はとってないぞ」
「このお話、最初は断ろうと思っていたから・・・。こんな高級ホテル、私には不釣合いだから他の場所でいいわよ。そうね、その部屋はどうかしら。いろいろ使い心地を確かめておいたほうがよいのでしょう?」
「助かる。でも、不釣合いなんてことは全くない。ますます綺麗になったじゃないか。男が放っておかないだろう?」
「そうなのよ、煩わしいったらありゃしない・・・って、私のことはどうでもいいから!話がまとまったところで乾杯しましょ」
「そうだな。誤解しているようだから言っておくが、お前に貸しなどない。借りがあるのはむしろ俺のほうだ」
「議論するのは面倒くさいから、そういうことにしておくわ。早く移動して、さっそく借りを返してもらおうかしら」
「むしろ俺の借りがますます増える気がするんだが」
男はそういうとロンググラスを手に取り、女がすでに手にしていたショートカクテルグラスにカチリと当てると、一気に半分ほど飲み干してバーテンを手招きする。みるみるうちに赤く染まる男の頬を懐かしそうに眺めていた女は、男が会計を済ませている間に自分のカクテルをコクコクと可愛らしく飲み干し、こう一人ごちて化粧室へ向かう。
ー心は強くなったみたいだけれど、格好つけたカクテルを飲むわりにお酒に弱いのは変わらないのねー
コートを着て店をでた二人はタクシーに乗り、千葉方面へと運ばれていく。後部座席のシートの真ん中で、女の左手と男の右手の小指同士がほんのわずか触れ合っている。指を絡ませたり手を重ねたりするのではないその微妙な距離感が、二人の微妙な関係を象徴しているようだ。
後方に流れゆく窓の外の都心の風景を眺めながら、女は無意識に小さく口を動かした。
「ごめんね、でもあなたがちょっとだけ羨ましいわ、×××」。
最後の言葉は、併走するベンツが右折禁止の交差点で右折しようとするトラックに鳴らしたクラクションの大きな音にかき消された。だがもし、その口もとを読唇術の達者な者が見ていたなら、こう読み取れたにちがいない。
「めぐみ」と。