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薄紫の刻
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薄紫の刻A-1

入院生活というものは辛いものではない。少なくとも僕にとっては快適な暮らしに思える。ベッドに一日中横たわり、どれだけ本を読んでいようが、どれだけTVを観ていようが、どれだけ眠っていようが、その自堕落とも言える生活態度を誰に咎められるわけでもなく、むしろそうしておとなしくしている方が誉められたりする。食事は何をせずとも三食きちんと目の前に配膳され、一般的なイメージとは違い意外に美味い。その上、栄養バランスも考慮されている。
重い病気に苦しむ患者にとっては、そんなことを考える余裕などないだろうが、足の骨折、しかも片足だけという大した怪我でもない僕にとっては、この病院での暮らしはとても居心地の良く、大げさに言えば何処かのセレブにでもなったような気分を味わえている。
勿論、出歩くことの不便さ、手術後の足の痛み、外出への欲求など、不満に思うこともあるにはある。しかし、普段から家に籠もり、多くの友人と遊び回る習慣のない僕にとっては、こうしてベッドに寝転んでいる毎日は苦痛ではなく、幸せを感じるに十分な環境がそこにあった。
「アンタ、友達いないの?」
寝転んだまま、いつものように窓の外に流れる車を眺めて、夜に配膳される食事の献立を考えていた僕に、カナコさんは突然そう言った。
「いますよ」
突然現われた彼女に驚きながら、その驚きを悟られないように平静を装って短く言葉を返す。
「どこに?見たことないんだけど」
カナコさんは、隣の高校生の腕に血圧計を巻きながら、僕のほうを振り向きもしない。いつものことだ。気にもならないし、僕だって彼女に向かって話していない。
「彼の具合はどうですか?」
顎を骨折したのだろうか、顔の下半分を包帯で覆われた隣の住人の容体を、看護士である彼女に尋ねた。その問いに、当の本人が親指を突き立てるサインで答えてみせた。
「痛むかい?」
「痛まないわけないだろ、バカ」
彼に訊いた言葉を今度は彼女が返す。その妙なやり取りに、包帯男が少し笑った、ように見えた。
「夕飯の前に検温に来るから」
血圧計を片付けながら言ったその言葉は、僕に対してか包帯男に対してか分からず、僕は黙って外を眺め続けた。
「ちゃんとベッドにいなよ」
どうやら僕に向けて言ったらしい。視線を彼女に移すと、カナコさんは部屋を出ていくところだった。
僕がその細い背中を見つめていると、包帯男がニヤリと笑ったように思えた。
「もっと痛め」
彼にそう吐き捨て、僕はまた夕飯の献立を考えることにした。


僕は一日に何度此処を訪れるだろう。屋上に流れる夕方の風は日中のそれとは違い少し爽やかで、僕はその中に煙草の煙を溶かしていった。
何処かで誰かが放った明るい笑い声が、小さくこだまするように響いてくる。病院の前を通り過ぎる車の音が、家路を急ぐためか忙しげに聞こえる。幼い子供の泣いてるような笑っているような嬌声が聞こえる。そのどれもが遠くにあるような気がする。実際遠いのかもしれないし、本当は近いのかもしれない。現実から遮断された異世界の住人になったような錯覚に陥った僕は、最後に強く煙草の煙を吸い込み、吸い殻を叩きつけるように灰皿に投げこんだ。


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