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薄紫の刻
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薄紫の刻A-2

「穏やかじゃないね」
後ろから注がれた声に振り向くと、苦い笑いをその端正な顔に張りつかせた同室の中年紳士が立っていた。
「何か嫌なことでも?」
そう尋ねながら彼は静かに僕の隣に腰をおろした。
「嫌なことだらけですよ」
「例えば?」
中年紳士は見たこともないような銘柄の煙草を高そうな寝巻の胸ポケットから取り出し、往年の映画俳優のように軽やかに、それでいて古臭い仕草で火を灯してみせた。外国産だろうか。嗅いだことのないキツイ匂いが鼻をついて、僕はその後の言葉に詰まってしまった。
「例えば……なんでしょうね」
苦笑い言葉を濁す僕を見て、彼も苦笑った。それはやはり古臭く、少し芝居がかった笑い方だった。
「そんなもんだよ」
「何がですか?」
彼の煙草から放たれるクセのある匂いから逃れるため、相手を不愉快にさせない程度に顔を背けながらそう訊いた。
「人はいつも何かに不満をもっている」
「でしょうね」
「だが、何が不満かと訊かれれば、咄嗟に思いつくのはそう大した不満ではなかったりする」
「そうでしょうか?」
「少なくとも私はそう思っている」
考えてみた。無駄だと思いながらも、もしかしたらという甘い希望を抱きながら、何が不満なのかを。
「まあ、若い時は色々悩みなさい」
眉間に皺を寄せる僕の表情を見て言った彼は、キツイ匂いを放つ煙草を灰皿に落として立ち上がった。
「我儘なんでしょうか?」
きっとそれが答えだ。分かっていて僕は敢えて訊く。
「我儘でない人間なんて、この世に居ないさ」
慰めにさえならないその危険な言葉を、僕は受け入れようとする。そしてまたそんな自分に嫌気がさす。
中年紳士の背中を見送って、僕は彼女にメールを送った。たった一言、別れようと。


―続く―


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