And I Love Her-2
「ゆうべ、しのがこう言ったんです。『ママは、パパのことが好きだったの?』って」
思わず上げた目線が、しのちゃんの母親のそれと交わる。
「『好きだったよ』って言うと、『だったら、好きな人に会えなくなるって、すっごく悲しいってことママもわかるよね?』ですって。私、驚いちゃった。しのがこんなこと言うとは思ってもみなかった。まだ子供で、8歳ですから実際子供なんですけれど、こういう気持ちを抱いたり、親にこういうことを言うようになったりしたんだ、と」
俺を見る視線はどこか優しい。
「私、しのに負けました」
しのちゃんの母親がにこりと笑った。あどけない笑顔の目尻の雰囲気が、しのちゃんにそっくりだ。
「この間公園でうかがったあなたの気持ちと、しのの気持ち、両方合わせていろいろ考えました」
汗をかいたグラスから水を飲んだしのちゃんの母親の表情が、ゆっくりと真剣な面持ちになる。
「あなたのこと、信じてみます」
そう言って、軽く顎を引いて俺の顔をじっと見る。
「あなたがおっしゃった、しのは年下の友達で、それと同時に女の子で、そばにいて見守ってあげたい、という言葉の意味をいろいろと考えました。いちばん怖かったのは、しのがあなたのおもちゃにされていないか、ということです」
見つめる視線を逸らすことができない。
「もしそうなら、しのは傷ついている。親の勝手な都合で父親かいなくなって、転校して、私がいつもそばにいてやれることができなくて……そうでなくてもつらい思いをさせているのに、これ以上……」
小さなため息をつく。エアコンのモーター音だけが静かに鳴る。店に入ったときに流れていたたぶん有線のビートルズは聞こえない。
「だからあなたをしのから離そうと考えていたんです。けど、しのはあなたに会えなくなってあんなに悲しんでいる。あなたと一緒にいるとどれだけ楽しくて、寂しくなくて、とっても幸せな気持ちになっているか、って、泣きながら訴えてくるんです」
もう、抑えることはできなかった。涙が両目からとめどなく溢れ、そして頤に伝ってぽたぽたと落ちる。かろうじて嗚咽は堪えたけど、しのちゃんの母親の顔を見続けることはできなかった。
「しのにとって、あなたはほんとうに『こいびと』なんですね」
視界の上辺ぎりぎりに見えるしのちゃんの母親の微笑みが、涙のせいで二重にダブっている。
「ひとつだけ、私と約束してください。これからも、しののことを傷つけずに、やさしく見守ってやってください……それだけが、母親としてのお願いです」
そう言ってしのちゃんの母親は俺に頭を下げた。
「……はい……約束、します……」
かろうじて声を振り絞った。
「あなたを信じます。しのを、愛してあげてね」
嗚咽が堪えられなくなった。しのちゃんの母親の右手がそっと伸び、俺の左の手首あたりに触れ、そして軽く握る。しのちゃんのような、温かくて小さめの手。
「泣かないでください、お兄ちゃん」
俺の顔を覗き込むようにしてしのちゃんの母親がそう言った。
「誰かが泣いている姿を見るのはつらいです。しのも、あなたにも、笑っていてほしいな」
立ち上がったしのちゃんの母親は、カウンターの内側から新しいおしぼりと乾いた白いハンドタオルを持ってきて、そっと俺に差し出した。すみません、小さな声でそう言って受け取り、顔の涙を拭う。
「しののこと、これからもよろしくお願いします」
しのちゃんの母親が、深々と頭を下げる。俺もそれ以上に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく、お願いします……すみませんでした、今までしのちゃんとのこと、お母さんに黙ったままで……」
上ずった鼻声。それをみっともないとは感じなかった。ありがとうございます、そして、許してください。その気持ちを、情けないトーンの声に必死で込めた。
「いいんですよ、それに『お母さん』はちょっと変かも」
初めて聞くしのちゃんの母親の笑い声は、その笑顔と同じようにあどけない。
「名前で呼んでください、まわりからずっと下の名前で呼ばれていたので。ひらがなで『さおり』です」
さおりさんは小首をかしげた。
「そういえば、お昼ごはんは食べてきたんですか?」
「……は、あ、いえ……」
「私、この店のシェフ、なんですよ。あ、ちょっと大げさかなフードメニュー少ないから……自家製のトマトソースで炒めたナポリタンがおすすめです。私もおなか空いちゃったから、一緒に食べましょ。ごちそうします」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
やっと、声がいつものトーンに戻ってきた。
さおりさんが作ってくれたナポリタンはバターの風味がふんだんに漂い、トマトの酸味と玉ねぎの甘味が絶妙だった。さおりさんは、向かいの席でアイスティーを飲みながらナポリタンを食べている。
「変なこと聞くんですけど」
さおりさんがフォークを皿の上に置き、ちょっといたずらっぽい笑顔になる。