はるかぜ公園の涙・家飲み-3
「お兄ちゃんのことは、おうちに帰ってからお話するね」
そう言うと母親は俺に小さく会釈をして、しのちゃんの手を引いて歩き始めた。
手を引かれて歩き出すしのちゃんが俺を振り返る。乾きかけた涙がまた溢れているのが見える。声をかけてあげたい。せめて笑顔だけでも見せてあげたい。けれど、硬直したように身体が動かない。
しのちゃんがふと立ち止まる。つられて母親の歩みも止まる。握った手を離したしのちゃんが、俺に向かって小走りで駆けてくる。思わずいつものようにしゃがみこんだ俺に、手にしていたワッフルコーンショコラアイスを差し出す。
「お兄ちゃん、アイス、食べてね」
俺の顔を見つめるしのちゃんの左目からつつーっと涙が流れ落ちる。思わず、しのちゃんを抱きしめたくなる衝動に駆られる。すんでのところでそれを抑え込んで、できる限りの笑顔を作る。
「ありがとう……」
「……お兄ちゃん、また一緒に遊べるよね、しゅくだいも一緒にできるよね」
しのちゃんの涙声に胸が詰まる。
「……うん、もちろん……また……」
言葉がうまく出てこない。トゲが刺さったようなツンとした痛みが鼻の奥に走る。しのちゃんからアイスを受け取り、小さな肩に手を置いてそっと振り向かせる。
「俺、ママとまたちゃんとお話しするから」
しのちゃんが小さくこくん、とうなずく。うつむいたまま、母親のほうへ歩き出す。公園の砂混じりの地面をしのちゃんのスニーカーが踏むじゃっ、じゃっ、という音が少しずつ遠ざかる。
しのちゃんの手を取った母親が俺を見て、もう一度小さく頭を下げた。立ち上がった俺は、うなだれるように頭を下げる他ない。
「今日このあと空いてる?あたしもう、飲まないとやってられないんだけど」
カウンターに掲示してあったツアーの看板を取り外しながら琴美が言った。夏の空は既にとっぷりと暮れている。ナイターだったら五回表に差し掛かるくらいの時間になっている。
お盆休みが近づいたあたりから空港の忙しさはマックス状態に突入していた。小さな空港で就航会社が二社しかないから利用客自体は羽田や関空なんかに比べて桁違いに少ない。そのかわり分業化されていないから、空港運営業務の半分くらいをもう一社と分け合っている。成田のJAL職員あたりはレンタカーの誘導まではやらないだろうな。
ので、繁忙期、特にその時期が比較的長い夏休み時期は体力つけないと乗り切れない。実際繁忙期をはじめて体験する麻衣ちゃんはすっかりバテ果てて昨日あたりから口数が極端に減っている。
ただ、俺にとってはクソ忙しいのは却って幸いだった。余計なことを考える暇がないから仕事している間は不安を忘れることができる。あれから十日以上過ぎたけど、しのちゃんの母親から連絡はまだない。休みの日をひとりで過ごすのは嫌だったから、こないだのシフト休みはヘルプを志願して半ば無理やり出勤した。
だから琴美の提案は渡りに舟だ。まして明日は休みだし。
「空いてる空いてる、どこ行く?」
「うーん、そうねぇ」
ツアー看板を左の脇に抱えた琴美がその姿勢のまま首を傾げる。
「打越駅の裏に飲み屋街あるじゃない?」
打越は琴美の家がある最寄り駅だ。
「国道越えたとこ?」
「そうそう。あそこの無国籍居酒屋がリニューアルしたんだよね。そこにしよっか」
話はまとまった。あとはなる早で残務を片付けてさっさと急行に乗るだけだ。
「あたし悪いけどしょっぱなから飛ばすよ」
席につくなり琴美が店員呼び出しボタンを押しながら言った。三方を区切られた狭い半個室の内装は黒が基調で、リニューアル直後らしく調度品も真新しい。薄い衝立みたいな襖を開けて注文を取りに来た店員さんに、琴美が「ラムハイ!今日は飲みまーす!」と宣言するのを苦笑いで抑えて注文を伝える。飲む前から酔っ払ってるみたいになるのは前にもあったけど、あんときは……そうだ、彼氏とうまくいっていないとかって軽く荒れたな。
「あ、ここの唐揚げおいしい。黒胡椒が効いてる」
琴美が大振りな唐揚げにかぶりつく。昨日のランチは「ダイエット中だから」とか言ってちっこいサンドイッチだけ食ってたはずだけどな。もしかして今日も自棄酒かこれ。
唐揚げ二個でラムハイを空けた琴美に付き合って俺もビールからジンライムに切り替える。仕事の話にNetflixの話が続き、なにかのドラマの白日夢みたいなあらすじをくさしていた琴美が大きくため息をついた。
「ねぇ、男ってさ、長く付き合うと女のやさしさが当たり前になってくるの、なんで」
箸の先でさつま揚げを突っつきながらつぶやく。
「彼?」
「うん。前はさあ、結構ちゃんと『ありがとう』とか言ってたし、あたしがなんかあげたらちゃんとお返しもくれたんだよね。でも最近そういうのなくなって。ちょっと文句行ったら拗ねちゃってさぁ」
「ふうん」
「おとといから携帯も出ないし、LINEも既読つかない。子供なんだよねぇあいつ」
ぐっ、と白桃モヒートを空けて店員呼び出しボタンを押す。まだ飲むんかい。
「いいんだけどさ、感謝されたくてつきあってるわけじゃないし。でもなんか、そういう子供っぽいところがやなんだよ」
子供、という単語が胸をちくっと刺す。無意識に手をポケットに突っ込んでスマホを出してロック画面を点灯させる。着信の通知は、ない。
「ちょっと。人が話してんのになにスマホ見てんのよ」