聡美(二.)-2
やがて飲みの席はお開きとなり、聡美は自分の車でパートの人たちを自宅まで送り届け、最後に残ったが前田だった。前田の指示でアパートの前までやってくると、前田は車から降りる寸前に、「ちょっとウチに寄っていきませんか?」と言った。
普段ならこのようなさそいには乗らない聡美だったが、謎の多い前田のことをもっと知りたいという好奇心と、酒を飲み過ぎてふらふらと歩く前田の足取りがあぶなっかしく感じたため、しかたなく聡美は車のエンジンを切り、玄関まで送って行くことにした。
玄関の鍵を開け、前田は部屋の中に入ると、聡美にも中に入るよう促した。
部屋の中は意外と片付いており、無駄な家具も置かれてなかったため、殺風景でガランとしていた。ただ、壁際には立派な本棚がいくつも設えられており、そこにはさまざまな文芸書や医学書、科学書や洋書などがずらりとならんでいた。
前田はローテーブルの近くに座るよう言い、台所に行ってコーヒーを入れる準備をした。
しばらくすると白い湯気がたつコーヒーが運ばれてきて、前田もテーブルの前にくつろぐと、何気ない会話がはじまった。
「前田くん、彼女はいるの?」と聡美がきくと、前田は苦笑いしながら首を横に振り、去年まで年下の彼女がいたのだが、別れてしまったということを話した。
それからいくつか他愛のない話をしたが、どうやら前田はあまり自分のことを話すのが好きではないようだった。
コーヒーを飲み干し、話題も尽きたところで、そろそろ暇を告げて聡美が立ち上がろうとしたそのとき、急に前田が抱きついてくると、顔を近づけて無理やり聡美の唇に接吻した。
びっくりした聡美は冷静に前田を押し返そうとするも、若い男の力は強く引き離すことができない。
前田の大きな手のひらが聡美の乳房を服の上からわしづかみにして力任せに揉まれた。そしてその手が次第に下がり股間の敏感な部分に触れようとしたとき、聡美の頭の中で強い理性がはたらき、力づくで前田を押しのけ脱兎のごとく逃げ出すと、くつをはいて玄関から飛び出した。そして急いで自動車に乗り、エンジンをかけてアパートから遠ざかっていった。
前田が追いかけてくる気配はまったくなかった。
聡美の胸の鼓動は高鳴っていた。ふわふわとした気持ちで自宅に着き、気分を変えるためにシャワーをあびてもこの気持ちは鎮まらなかった。
翌日、パート先の控室で前田は聡美に謝罪の言葉を述べた。
「いいのよ、前田くん、けっこうお酒入ってたし、若いんだから、そういうこともあるわよ。あのときのことはお互い水に流しましょう」と、聡美はほがらかに笑いながら答えた。
その後はとくにわだかまりもなく、聡美も前田もお互い意識することなく月日は過ぎた。
ところが三カ月が経とうとしたある日、仕事が終わり従業員通路から外に出ようとしたそのとき、前田から呼び止められ、大事な話があると言われた。
二人はひとけのない公園に移動し、そこで前田は初めて自分の気持ちを打ち明けた。聡美に愛の告白をしたのである。
聡美は当然、首を縦に振らなかった。
「あなたはまだ学生だし、わたしはもう結婚して二人の子どもがいる主婦なのよ。そんなこと許されるわけないでしょう?」
「どうしてもだめですか?」
「だめよ」
厳然と言い放つと、しばらく二人は見つめ合ったまま沈黙の時が過ぎた。
やがて前田は、「わかりました」とだけ言うと、踵を返して振り返ることなく立ち去って行った。
それから前田はパートの仕事を休みがちになり、ある日を境にしてパッタリと来なくなってしまった。