夢の中で-2
電車を降りて駅舎を出ると、さっきまでの雨はすっかり上がっていて、西空に薄い夕焼けが出ている。
駅に近いコンビニで缶ビールを買って、歩道橋に向かって歩いていると、通学路との交差点を過ぎたところで腰のあたりに後ろからぽん、となにかが当たった。
「あれ、しのちゃん?」
振り向くと、黄色い通学帽をかぶってミントグリーンのランドセルを背負ったしのちゃんが笑いながら立っていた。右手に下げた体操着袋がぶらぶらと揺れている。
「ふへへ、びっくりした。お兄ちゃんみたいな人がいるなと思ったらお兄ちゃんなんだもん」
「俺だってびっくりしたよ、時間遅くない?」
空港からの電車を降りたときに見た駅の時計は五時半を指していた。
「今日は学活があったから。それに、雨降ってたから、止むまでちょっと待ってたんだ」
俺と並んで歩道を歩きながらしのちゃんが言った。そうか今日は木曜日だ。学活―俺が小学校のときは学級会とか言ってたような気がする―は六時限目だからいつもより下校が一時間遅くなる。しかも雨宿り、まあこんな時間になるわな。日の長い季節でよかった。俺が言うのも妙だが、暗い道を小学生ひとりで歩かせるのは防犯上よくない。
それにしても、下校時のしのちゃんと会うのは久しぶりだ。俺の普段の終業時刻にはとっくに五時限目が終わっているから、俺が早帰りするかしのちゃんが学活があるかしないと帰りの時間は重ならない。前回下校時にばったり会ったときは、
Twiceの「L.O.V.E」を口ずさみながら歩いていたしのちゃんは、渡った歩道橋の階段を降りかけたところでふと立ち止まった。
「そういえば、お兄ちゃんのおうちって、どのへんにあるの?」
しのちゃんには、話を区切るときに口の形が最後の母音のままになる癖がある。ちょっと首をかしげて俺を見上げるしのちゃんの唇は「の」の形にやや尖っている。
「俺んち?えっとね……あ、あそこに茶色い大きなマンションが建ってるでしょ、屋上にタンクが乗っかってる。あの隣のアパート」
「ふぅん、じゃあ、あたしのうちからそんなに遠くないよね」
歩道橋の手すり越しに俺が指さした方角を背伸びして見ていたしのちゃんは、ゆっくりと階段を降り始めた。
「あたし、こんどお兄ちゃんのおうちに遊びに行きたいな」
え。
「お兄ちゃんこないだ、ママにあいさつしてないからあたしのうちにあがれない、って言ってたじゃない、お兄ちゃんはひとり暮らしだよね?」
「う、うん」
「じゃあ、あたしがあいさつしなきゃいけないひと、いないでしょ?」
まあ、それはたしかにそのとおりだけど。
「うーん。でも、それもやっぱりしのちゃんのママにあいさつしてからだな」
「そうなの?」
階段を降りたところのガードレールを背にしてしのちゃんが振り向く。ワンピースから伸びるしのちゃんの日焼けした腕や足に夕陽が当たってキラキラと反射している。
「うん、おたがいの家に行くときは、特に女の子のママに男の子がちゃんとあいさつしてからじゃないと」
「ふうん……」
うつむく黄色い帽子の頭の上に「しょぼん」という文字が浮かんでいるように見えるほど、がっかりした声をしのちゃんは出した。
「ま、タイミングが合ったら、俺からしのちゃんのママにあいさつするよ、そしたら遊びにおいで」
「う……ん。わかった。そうだ、土曜日は遊べるんだよね?」
しのちゃんが顔を上げてにこっと笑った。いつもの笑顔だ。
「うん、あさっては休みだから。土曜日だから、二時くらいにはるかぜ公園にしようか」
「わーい。へへ、デート、ちょっと長くいられるね」
ガードレールを背にしたしのちゃんはぴょん、と軽くジャンプした。星座の模様が入ったサファイアブルーのワンピースの裾がふわりと揺れる。
「じゃ、あさって二時にまたね。気をつけて」
「うん、またねー。バイバーイ!」
ガードレールの続く歩道は線路沿いに伸びていて、やがて線路に並んで右にカーブしていく。俺は、ときどき振り返って手を振りながら歩くしのちゃんの姿がカーブの先に消えるまで見送った。