お守り-4
右の手のひらを顔のあたりまで上げて俺に向けてそう言ったしのちゃんは、くるっと振り返って路地の奥へ駆け出していく。正面に見える二階建てのアパートの手前でしのちゃんが左に曲がって姿が見えなくなった。入り口はそっちにあるのか。
路地の入り口にある古い建物の軒下でしのちゃんを待ちながら、俺は軽く後悔していた。なにが理性だ、そりゃ母親不在の間にしのちゃんの家に上がって……みたいな誘惑は振り切ったけど、パンツをくれることもなんで断らなかったんだ。娘の下着が無くなっていたらふつう気づくし、そこから俺の存在が露呈していく可能性だってあるんだぞ。
五分くらい経っただろうか。玄関ドアが閉まるぱたん、というかすかな音が聞こえ、やがて路地の奥にしのちゃんが姿を現した。たたたっ、と駆け寄ってくるその右手には、黄色いなにかが握られている。
「お兄ちゃん、これ、しのからのプレゼント」
にこっ、と笑ってしのちゃんが差し出したのは、レモンイエロー地にニワトリとヒヨコのイラストがあしらわれた巾着袋だった。
「この中にね、しののパンツ入ってるから」
小さめの声だったけれど、俺は思わず周囲を見回した。黄昏が色濃くなった三叉路周辺には相変わらず人影がない。俺の背後の建物も無人のようだ。
「え、でも……」
まさか、さっき公園で見せてくれたパンツ、あれを脱いで入れてくれたのか。いやそれなら最高だけど、俺はあまりにも鬼畜なことをさせたんじゃないのか。
「このパンツねー、まだ買ったばっかりで、一回くらいかな穿いたの。ラベンダーでかわいいからお気に入りなんだけど、いちばん新しいのこれだから、お兄ちゃんにあげる」
「……そんな新しいの、もったいないよ」
「だって、古いのじゃ悪いもん、きたないし」
「でもしのちゃん、それ、無くなってたらママに怒られないかな」
「あ、だいじょうぶだよ。洗濯してるのあたしだもん」
「……え?」
しのちゃんはにへっ、と笑った。
「ママは、お買い物と、ごはんと、お掃除するの。あたしは、ごはん食べたら食器洗って、洗濯して、洗濯終わったらたたんで片付けるんだ。ママがぜんぶやるの、大変だもん」
俺を見上げるしのちゃんの表情はどこか誇らしげだ。
「だから、ママにはわからないから平気。はい」
しのちゃんが俺の手に柔らかな巾着袋を押し付ける。
「これがあったら、お兄ちゃん寂しくないでしょ」
なんだ俺、どうした、泣きそうだぞ。
「……ありがとうしのちゃん……」
しのちゃんの前に跪いて、両手で巾着袋を受け取る。またにへっ、と笑うしのちゃんの顔が少し霞んで見える。
「大事にするよ。もう俺、なんにも寂しいことなんかない。しのちゃんがこいびとで、しのちゃんがくれたものがあるから……これ、俺のお守りにするよ」
「へへへ、大げさだなあ。でも秘密にしてね、ちょっと恥ずかしいから」
「うん、しのちゃんと、俺の間だけの秘密」
奔流のような感情がこみ上げてくる。俺は、両手をしのちゃんの肩の後ろに回してそっと抱き寄せた。しのちゃんの顔が、俺の胸に埋まる。
「やだぁお兄ちゃん……」
「しのちゃん、大好きだよ」
「うん、あたしもお兄ちゃん大好き」
しのちゃんの両手が俺の背中を抱きしめる。人の気配はまったく感じないけれど、もう誰かに見られたって構わない。愛おしさといじらしさと罪悪感がないまぜになって胸の中を支配している。これを理性でコントロールできたら人間じゃない。愛おしい存在は、ぎゅっと抱きしめたい。
そっとしのちゃんの身体を離すと、しのちゃんの腕もゆっくりと背中を離れる。立ち上がった俺を見上げて、しのちゃんがみたたび、にへっと笑う。
「お兄ちゃんに、ハグされちゃった」
「だって、しのちゃんがかわいすぎるから」
スーパーにもコンビニにも寄らずに部屋に帰った俺は、ふだんはやりもしない帰宅時の手洗いをして、エアコンのスイッチもそこそこにPCデスクに座った。
巾着袋をデスクに置く。本体と同じ色のひもがついている、給食用のランチョンマットを入れるための、小型の巾着袋。柔らかくふんわりとふくらんでいる、ニワトリの親子のイラストがいくつも描かれている巾着袋。
ひもを緩め、そっと口を開く。小さくたたまれたラベンダー色の布が見える。指を入れて、ゆっくりと引き出す。
ラベンダー色のパンツ。薄いラベンダー色の地に、紫が強めの濃いラベンダー色の花柄模様がプリントされている。正面上部の、花柄模様と同じ色のちっちゃなリボンがアクセントになっている。ウエストや足ぐりのゴムも弾力があり、縫い目のほつれもまったくない。
なにも期待していないけれど、裏返して膣当ての生地を指の腹でなぞる。毛羽立ちの気配もまだないし、もちろんシミもない。そっと鼻を近づけると、かすかな柔軟剤の香りがする。
俺はパンツの裏表を直し、しのちゃんと同じようにたたみ直した。これは、やはりお守りだ。性欲の対象物、オナペットにするものじゃない。ロリパン、女児パンツ、しのちゃんの小2パンツ。そういう劣情を煽る単語は、このパンツには似合わん。
巾着袋の口を広げてパンツを収め、ひもを締めてその先端をデスク脇のコルクボードにぶら下げる。四切の光沢紙にプリントした、笑顔のしのちゃんの写真の横で巾着袋がゆらりと揺れる。
ざっとシャワーを浴び、冷蔵庫の中の残り物で夕食を済ませ、CSのナイター中継を見ながら缶ビールを三本空けた俺は、いつもよりかなり早くベッドに入った。なんだか、とても幸せな気持ちのまま穏やかに眠れそうだった。いつもならしのちゃんに会った夜はしのちゃんで抜いてから寝るのだけど、しのちゃんで射精するよりももっと満たされた気分でいた俺は、リモコンで灯りを消すとともに眠りに落ちた。