その1-1
長く続いた、あの戦乱の日々から、時代はとうに過ぎていた。
腰に刀を差し、甲冑で身を固め、敵将の首を狙ったあの頃……。
そんな時代があったことさえ忘れているこの元禄という時代。
侍たちは、戦いのない世の中では、働くところも無く
寺子屋で、子供に書きかたや習字を教えたり、
そういう才覚のない侍達は、用心棒や傘張り等で職を得ていた。
滅多に刃傷沙汰のないこの頃、武家の娘は人目を気にすることなく
乳母などの供を連れて、そぞろ歩きながら散策を楽しんでいた。
或る風の強いその日、若く美しい娘が街を一人で歩いていた。
舞い上がる風は、娘の着物の裾に入り込み思わず倒れ込んだ。
「きゃ!」
娘は転んだ拍子に足を大きく股を開いてしまった。
その白く艶かしい太股に男達の視線が注がれていた。
「いやぁ、あの娘の剥き出しの白い色気、あんな絵を見たいなぁ」
「そうだね、でもさ、最近の春画を見たかい?」
「いや、どんな春画かな?」
「その絵に描かれている男は、歌舞伎役者の艶之助でね、女は
当代一番の売れっ子の花魁の花奴の絡み絵らしいね」
「なるほどね、でもさ、今の春画は男女の性器がいやに大きく
大胆で色気なんぞ、あったもんじゃない!」
「もっと、綺麗で上品でしかも、色気のある絵が欲しい」
「俺もそんな絵を売り出したら、買いたいな」
桜吹雪の舞うこの江戸の町は活気にあふれ、
当代人気の歌舞伎役者の絵は、飛ぶようによく売れていた。
ここに、或る男がいた。
このところ、この男には様々なるところから浮世絵の依頼が来ていた。
彼の名声は留まることがない。
もともと小さい頃から絵が好きで、
器用な彼はどんな絵も得意としていた。
その頃から絵を描かせれば天才と言われ、
彼の描く多くの絵は、草花や鳥獣虫魚が主だった。
何を書いてもそれが生きているようであり、
彼の描く絵は、どの絵もいつでも飛ぶように売れていた。
或る金持ちに買われた掛け軸の絵は、
男の家の居間に掲げられていた。
それは世にも珍しく美しい鳥で、或る晴れた日に、
どこからか吹いてきた風に乗り、
その掛け軸が揺れて鳥が絵から抜け出て、
妖しくも奇妙で美しい声を発しながら
彼方へ飛んでいったと言う。
また、鯉を描いた絵を買った商人が、縁側でうたた寝をしていたとき、
畳の上に置いてあった絵が、吹いてきた風でひらひらと彼方へ飛び、
その紙はその家の小さな池の上に舞い上がった。
商人の男が気が付いて慌ててその絵を追いかけたが、
絵はくるくると風に舞いながら、池の中に吸いこまれたと思うと、
その絵から抜け出た鯉が、
スイスイと勢いよく泳いで、池の底へ消えたということもあったと言う。
彼は有名な浮世絵師ではあるが、
その作風は、他の浮世絵師とは趣が少し違っていた。
或る時期から、
彼はその作品に於いては「白さ」を基調にしたものを描くようになった。
浮世絵と言えば、
その頃は、女達を描く絵は鮮やかで、色とりどりの絵が殆どだった。
花魁や町娘などの絵は赤や橙色や桃色など、
如何にも派手で、色っぽい色彩で艶やかに描かれていて、
それがまた世の男達の心を惑わしていた。
しかし、当初の頃の彼は逆にそれを嫌い、対照的な白を多く使い、
黒や地味な色を織り交ぜて描くのを得意としていた。
それは人により派手な色を好む人と、
地味の中に、落ち着きのある作風を好む人達がいることも事実である。
彼の絵は、一風見た感じでは地味ではあるが、よくよく見てみると、
その白さが際だち、絵の中に落ち着きと深い味わいがあった。
こういう絵を描く人物は、この界隈では今のところ彼しかいない。
それはまた水墨画とは違っており、彼等とは一線を画していた。