触覚-6
喫茶店の客が帰り、店内はぼくひとりだけになった。
一時間前、ぼくは目の前の椅子に座っていたY…の残像のような気配に、どこか甘い息苦しさを感じていた。
彼は身なりのいいスーツを着た、引き締まった体つきをした男だった。艶やかな長い髪を頭の後ろで束ね、蒼い目をもち、端正で理知的な顔の輪郭とすきのないクールな装いはどこか人間離れした秘めやかな冷酷さえ漂わせていた。
「あの人は、路地の先にある古いホテルで待っているのですか」
ぼくは用意していた言葉を吐いた。蔦がびっしりと絡まったそのホテルに雪乃さんとこの男が入っていくところを以前、見たことがあった。
「ええ、彼女が望んだことですから。私たちはそういう関係なのです」
男は表情を崩すことなく短い言葉を吐くと、深く吸った煙草の煙を宙に吐いた。
「きみは雪乃さんに好意をいだいているのですか」
そう言ってY…は見下したように冷淡な笑みをぼくに差し向けた。ぼくは微かな恥ずかしさが込みあげてくるのを感じた。
「きみには申し訳ないが、私たちは愛し合っています」と男はぼくを突き放すような言葉を冷ややかに吐いた。
ぼくが汐路に雪乃さんを紹介されたのは半年前だった。ぼくは雪乃さんの家に食事に誘われた。
先に雪乃さんの家にいるはずの汐路はいなかった。
ごめんなさいね。早くから汐路はここに来ていたんだけど、急な用事でちょっと出かけたの。待ってもらってと言っていましたよ。いいのよ、ゆっくりしてくださいね。今、珈琲を入れますから。
そう言ってぼくをリビングに招き入れた雪乃さんの細く白い足首がスカートの裾の先から覗いたとき、ぼくの眼の中が奇妙に疼くのを感じた。
美しく肩にかかった黒髪をした雪乃さんの象牙の人形のような首筋と薄い唇、そして冷たく澄んだ瞳は、どこか汐路の雰囲気を感じさせたが、まわりのすべてのものを拒む凛とした水晶の光のような美しさを秘め、ふくよかな胸と実りすぎた身体つきからは大人の女性の熟れきった豊潤な雫が今にも滲み出しそうだった。
ぼくはそのとき初めて自分の眼がいつもと違っていることに気がついた。ぼくが汐路の中に見えなかったものが、感じられなかったものが、雪乃さんから滲み出し、ぼくの眼の中に絵具を溶かしたように映っているような気がした。
雪乃叔母様って、とてもきれいでしょう。叔母様ったら、叔父様と離婚したあと、別の男の人とつき合っているのよ。汐路は小さな声でぼくの耳元に囁いた。
どんな男の人とつきあっているのとぼくが聞くと、彼女は目を細め、小悪魔のようにぼくの耳元で小さく囁いた。
若い男で変態らしいの。ほら、女の人を縛ったり、鞭で打ったりして悦ぶ男よ。
雪乃さんはそんなことをされてもその男の人とつき合っているの。ぼくは微かな胸の鼓動を抑えられないまま言った。
ああ見えても叔母様は、そういう女性なのよ。驚いたかしら。と汐路は目を細めながら楽しそうにぼくの眼を覗き込むように言った。
あのとき、汐路が囁いた言葉が脳裏を微かによぎっていく。
「きみがつき合っている汐路から聞いたでしょう。私がどんな男か。驚く必要はありません。そういう楽しみ方をする男と女は、どこにでもいるものですよ。男は女を愛していればいるほど虐げたくなり、女が男を愛していれば、男が与えるどんな仕打ちにも心と体を赤裸々に晒すことができるということではないでしょうか。たとえ、それが恥辱や苦痛であったとしても。まだ、若いきみにはわからないかもしれませんが」と言って、彼は淫靡な笑みを頬に浮かべた。