人妻の浮気心 (3)-1
「はい、あーん」
夫がフォークにショートケーキをすくい、ゆきに差し出している。
「うふふ、ありがと。あーん……もぐ……もぐ」
ぱくりと食いつき、にっこり笑うゆき。二人の子どもたちもそれぞれにデザートを頬張っている。
ショッピングモールのフードコートに座る彼女は、すっかり母親の顔である。化粧っ気もなければ髪も後ろで簡単に束ねただけ。昨年ついに三十の峠も越え、笑顔の奥にはかすかに疲労が浮かぶ。にもかかわらず、ゆきの美貌はあたり一帯に異彩を放っている。すれ違う家族連れの男たちの視線は自ずとゆきに集まり、妻や子どもと会話するその視界の隅でこの名も知らぬ美人妻を捉えているのだ。良き父親たちの視線はときに彼女の下半身に注がれる。二児の経産婦となり下半身もほどよく肉づいてきた。細身のデニムが腰回りから尻、股ぐら、そして太ももにぴたりとフィットしている。
自らが下衆な視線に晒されていることなど知る由もなく、ゆきはのどかな休日の午後を楽しもうとしていた。
共働きでの二児の子育てという嵐のような日々にたまに訪れる、束の間のゆったり時間。子どもが食べ物をこぼしたりぐずったりでまたすぐせわしなくなるまでのわずかな時間かもしれないが、食後のコーヒーとデザートをゆっくり楽しめるだけでも上出来だ。
このひとときが幸せであればあるほどしかし、ゆきの心は楽しむどころか、重く沈む。
抱えきれないほどの幸せを与えてくれる夫と子どもたちへの裏切り行為を、今のゆきは行っていたからだ。先日の送別会の夜からゆきは連日のようにYと身体を重ねていた。幸せそうに微笑み、一見何気なく座っているように見えるゆきの下腹部は、昨晩のYのペニスの感触が刻まれ疼いていた。夫に「あーん」されショートケーキを頬張っている同じ口、同じ格好で、昨晩はYのペニスを頬張っていた。
夫とはもう一年以上セックスをしていない。疲労を理由に夜の誘いを拒否し続けているゆきに夫は嫌な顔ひとつせず、むしろいたわってくれる。そんな夫を裏切り続けているのだ。
もっとも――浮気はともかく――セックスレスに関しては、ゆきの側にも少し言い分はあった。
一人目を出産してからのゆきは、毎日の子供の食事、授乳、保育園の送り迎え、寝かしつけ、夜泣き、掃除、洗濯、時短勤務で慌ただしい仕事、駆け足の通勤、満員電車で疲れ切っていた。夫は家事育児ともに積極的ではあったが、数年前に転職したこともあり忙しく、家事への関わりには物理的な限界があった。夫を愛する気持ちに変わりはなくとも、しわ寄せが常に自分にくることに釈然としない思いが募る。気持ちのやり場を見つけられず悶々としている夜、夫が前戯もなしに挿入してきて軽く腰を動かしたと思ったら一、二分で終わりというセックスをされる妻の気持ちは夫には分からないだろう。ゆきは次第に夫とのセックスがおっくうになり、もう最後にしたのがいつだったかさえ、思い出せない。
恋人時代はそんな初心な夫のことを愛おしいと感じていた。ゆきの過去の男はみな女性の扱いに長けセックスも上手だったからなおさら、夫が下手なりにも精一杯頑張る姿は新鮮で可愛かった。
しかし今は違う。行為自体は同じはずなのに、単なるなおざりなセックスとしか感じられない。いちどそう思うともうだめだった。彼に悪気がないのはわかっている。ただ不器用で早漏なだけなのだ。わかっているが、でも、私は夫の性欲処理機ではない。そもそもなぜあの人は何年経ってもセックスが未熟なまま上達しなのか。あんなセックスを私は一生我慢し続けないといけないのか。悲しくなったゆきは疲れていることを理由に夫の誘いを断ることが増え、夫婦の営みのペースは少しずつ落ち、ついには途絶えた。
人知れず不安定な時期を過ごしていたゆきの前に現れたのがYである。
職場の後輩は、夫への小さな不満と不信で生じたゆきの心のすき間にするりと入り込んできた。オフィスで姿を見つけ言葉をかわすだけで、ほんの少し心躍る異性の存在がゆきには懐かしかった。夫と出会った新社会人のころを思い出す。胸がきゅっと小さく音を立てる瑞々しい感覚。自らの心の「女」の部分が久しぶりに反応している、この状況に今は身を任せてみよう。別に彼に夫の愚痴をこぼすわけではない。デートも何もなくて構わない。人妻として同僚として、何かあってはいけないと考える程度の分別を、ゆきは当然に備えていた。
ただ視線を合わせ、くだらない冗談で笑いあう、それでいい。自分が好意を抱くのと同じように、向こうからも好意を感じるのは気のせいだろうか。気のせいでもいい。何気ない異性へのときめきを心密かに楽しむくらい、許されたっていいじゃないか。
ある日、彼が海外赴任するという噂を聞いた。会えなくなるのは残念だが、しかし近くにいたとしてこれ以上仲を深めることはできないのだから、自分の気持ちを「ほどほど」に留めて置くにはよい機会だと前向きに捉えることにした。それよりも、今まで自分の心を――彼はそんなつもりはなかったと思うが――優しく癒やしてくれてありがとう。ささやかな恋心は一生自分の胸の中だけにしまい、感謝とともに彼を送り出してあげよう。
そんな気持ちで、送別会に参加したはずだった。