起-1
【1】
《ドンッ》
背後からの不意な衝撃に、仲田は前のめりにバランスを崩す。
「うわぁっ、あぶなっぃ」
反射的に声をあげ振り向くと、その衝撃の原因を知る。
「なんだよ、文句あんのか!俺が先なんだよ」
中年男は、少し唇を歪めて言う。
如何にもガテン系の四十男は、色褪せた作業服にずんぐりとした体型だ。
ボサボサの髪に無精ヒゲ、こちらを睨む左目に対し右目はあらぬ方を向いている。
粗野な言動にうらぶれた風体、ヤバそうな目つきは、朝からパチンコ屋や場外車券売場にでも入り浸っていそうな類だ。
「…… いえ、すいません」
気圧された訳ではないが、軽くやり過ごす。
どうやらガテン系は、仲田が自販機で飲み物を買おうとしたところ、自分が先に買うんだと意味もない優先権を主張しているようだ。
「おい、金」
「はっ?」
「はっ?、じゃねえよ。テメエが悪いと思うんなら、飲み物ぐらい奢れよ」
まったく面倒な奴に絡まれたものである。
「これは、気がつかなくて」
軽く頭を下げながら、財布から500円玉を一枚渡す。
「へへっ、気が利くじゃねえか」
ガテン系は気を良くしたのか、ニヤリと笑い、自販機でコーヒーを2本買う。
無論、釣銭が返されることはなかった。
(こんな最下層の住人に関わるのは時間の無駄だ。さっさと視界から消え失せろ)
心のなかで毒づいた仲田は、ガテン系が居なくなってからエナジードリンクを買った。
25歳になる仲田は車の新車販売をしている。
仲田が休日にも関わらずスーツ姿なのは、隣接県粕和市に住む顧客からの苦情の為だ。
今は丁度そこからの帰りで、下りの特急とわ63号から降り、自宅の最寄り駅であるJR友戸駅南口から出て来たところである。
高額品である新車販売にトラブルはつきもので、理不尽なクレームは日常茶飯事なのだ。
相手先が運悪く道路渋滞が激しい駅前だったので、効率を考え公共交通機関の利用を選択した。
本来ならば苦情処理を終え、一息つこうと飲み物を口にしようとした矢先のトラブルであった。
しかしながら常日頃より、世の中の理不尽を経験している仲田にとって、こんな些末なことは何でもない。
ましてや見るからに、怪しい風体の男であれば、相手にするだけ時間の無駄だと思ったのだ。
「さっ、帰って動画でも観るか」
誰に言うでもなくそう言うと、南口広場駐車場へ向かう。
その違和感は愛車ラクサスへ乗りこもうと、数台離れたハイビースの前を通った時のことだ。
(車検切れ…… ひと月ほど過ぎているじゃないか)
車関係の仕事のせいか、期限切れの車検証ステッカーに気づく。
正確に言うなら1ナンバー登録なので、貨物車分類のハイビースバンである。
パッと見、乗用車のハイビースワゴンと変わらないが、バンは貨物がメイン用途なので後席が簡単に折りたため補助的だ。
逆に言えば、簡単に後部座席が荷物を詰め込める貨物スペースへ変わる。
更にボディを見ると目立った傷凹みも有り、ボディカラーであるホワイトの退色も著しい。
どこかの廃車ヤードにでも転がっていそうな、ハイビースバンである。
何より怪しげなのは、サイドとリアガラスに貼られた透過率の濃いカーフィルで、露骨に
後席部分を隠していた。
ハイビースバンは貨物車なので、積載スペースになる後部に濃いカーフィルを貼られているのは珍しくない。
しかし、全体的にネガティブな条件がそろい過ぎ、見るからに怪しい。
(なるほど…… )
まじまじと直視するようなことはせず、視界の隅で捉えたのは、先ほど自販機前で絡んできた中年男の姿だった。
ガテン系は運転席で缶コーヒーを飲みながら、満足気に煙草を吹かしている。
人は見かけだと、仲田はつくづく思った。
むやみに外見だけで判断するつもりはないが、残念ながら逆もまた然りである。
ひとつひとつは偶々であっても、これだけ悪条件がそろえば納得せざろうえない。
仮に俗説をひとつ挙げるなら、貧困層は歯の治療や歯並びに関心を持たず、喫煙やファーストフードを好む傾向が強いと言われているらしい。
残念ながら幾つかの条件が重なってくれば、少なからず人間はその見た目で相手を判断してしまいがちである。
身勝手で乱暴な振る舞いに、少額ではあるが恐喝じみた態度、怪しい風体を総じて判断すればどう考えてガテン系は不逞の輩だ。
比べて自分はどうだろうかと、仲田はルームミラーに映る姿を見る。
接客業であるため、身嗜みには常日頃より気を配っているのは当然だ。
しかし最近の若い女性客などは、特にそういった点にナーバスで厳しい。
ある時などベテランセールスの口臭が原因で、女性客から指摘を受け商談を打ち切られたのを目撃した。
仲田は定期的に歯科医に通い、酒煙草はやらず、暴飲暴食は避け健康に気を配っている。
仕事で身に着けるスーツや靴などは清潔でシンプルに徹し、ブランド品を避けるのは相手に与える印象を考えてだ。
身の丈に合わない高級品を身に着けても、悪目立ちするだけでマイナスにしかならない。
実務においても成績を上げる為に、無理な要求に自腹を切ることや、理不尽なクレームにも辛抱強く的確に対処する。
そんな感じで社会人三年目の仲田ではあるが、思いもよらず大きな幸運に恵まれた。
社会人一年目に思い切って投資した仮想通貨が、最近になって化けに化けたのだ。