薄紫の刻@-1
時は流れない。雪のように積もるものだと思った。
夏を迎えようとするこの時期に、雪という名詞をほじくり出してきた自分の思考に一人苦く笑い、その夜三本目の煙草に火を点けた。
此処にとって夜の十時は深夜を意味する。だからといって、みんな寝てしまっているわけではない。電気の落とされた暗い部屋で視力低下を恐れずにTVを観る者もいれば、明るすぎない程度に調節されたライトの光を頼りに、静かに本を読んで過ごしている者もいる。だけど、屋上で呑気に煙草を吹かしているのは僕一人だけだ。
世間のあらゆるものから遮断された独特の空気に包まれた此処では、時の流れを感じない。積もるように日々が折り重なって過ぎていく。それが入院患者にとって、療養の一つになるからだろうか?
右足のギプスが邪魔になって普段どおりに座れない居心地の悪い体勢を変え、ベンチの端にある灰皿に煙草を落とした。何故始めから灰皿の傍に座らなかったのかを後悔し、勝手に苛立っていた時、背後の扉が静かに開いた。
「またアンタ?」
扉をくぐってきた人物がため息混じりに言った。
「眠れないんですよ」
隣に座った人物の顔も見ずに僕は言う。
「みんなそう言うわね」
吐き捨てるように言いながら、ポケットから煙草の箱を取り出した。それは僕と同じ銘柄で、僕のより度数が少しキツイ種類のものだった。
「看護婦が煙草なんて吸っていいんですか?」
「アンタ、いつの時代の人間よ。それに看護婦じゃなくて、今は看護士っていうのよ」
彼女は煙草の箱から細いライターを取り出し、慣れた手つきで火を付けた。
市立大学の附属であるこの立派な病院に入院しているのは、何も僕が金銭的に裕福だからでも、この大病院でなければならない難病を抱えてるわけでもない。バイクで勝手に転び、救急車で勝手に搬送され、近いという理由だけで勝手に運び込まれただけだ。
大きな病院、金持ちの来る処、つまりは金持ちしか来れない処、という貧乏人に有りがちな先入観を持っていた僕にとって、この病院に緊急入院するというのはとても居心地の悪いものだった。破格の費用を請求されるのではないだろうかと不安にも思った。しかし、病院はしょせん病院であって、最上階の特別病棟にお世話になるのでなければ、一般的なそれとは何ら変わりはなかった。当然と言えば当然だ。
それでも僕の中にはもう一つの先入観があった。
「はぁ、ダルいなぁ……」
この女性に出会うまでは。
大熊佳菜子。彼女についての情報は胸についた名札から得たそれだけで、歳も知らなければ、出身地も、好きな食物が何かも知らない。すれ違えば三人に二人は振り返るだろうそこそこの美貌と、純白の制服を見事に着こなすスラリとした体躯を見ていれば、若い僕でなくても名前以外の情報を得たいと思うだろう。でも、僕はそうはしなかった。他の皆、隣のベッドで身体中に包帯を巻いて寝転んでいる高校生らしき派手な髪色の若者も、向かいでいつも経済新聞を読んでいる如何にもやり手そうな中年紳士も、誰も彼女に無駄口をたたこうとしない。その二人の“先輩”が居る六人部屋に僕が初めて来てから一週間したある日、その理由が解った。
彼女を他のナースは当然「大熊さん」と呼ぶ。初めてそれを耳にした時、僕は迂闊にも本人を目の前にして吹き出してしまった。
隣の高校生の点滴を交換していた彼女はそれに気付き、意外にも不愉快な顔をしなかった。ただ、冷たい目で僕を見下ろした。その背筋が凍るほどの冷徹な視線に僕は焦って「いや、スイマセン。そんな細い身体をしているのに大熊だなんて――」と言い訳がましく説明した言葉に被せるように一言、「うるさい黙れ」と早口で僕の言葉を遮った。
ナースが患者に対して「うるさい黙れ」?
彼女はそういう人だ。