深夜のオフィスで (3)-2
ゆきとYの話し声がする。
仕事のこと、同僚のこと、上司のこと、プライベートのこと。会話の雰囲気からはキスされた数日前と同じく、二人きりでの残業であることが察せられた。あんなことがあったにも関わらず、Yと話すゆきはテンションが高く、悪くない雰囲気である。
「あーあ、俺にもいい人いないかなー」
「なんでー? Yくんだったらすぐ見つかりそうなのに」
「そうでもないですよ。忙しくて出会いも少ないし」
「営業のAちゃんとかBさんとは同期で仲いいんでしょ? みんないい子だよ。誘ってみれば?」
「えー、俺がホントに誘いたいのはやっぱりゆきさんだし」
「もーなに言ってるの、Yくん」
笑いあう二人。つい先日、人妻と独身男性がキスしてしまったという重苦しさは感じられない。
「ゆきさんは俺の中で特別なんですよ」
「うふふ、ありがと。出会うのがもう少し早ければね」
さらりときわどい発言をするゆき。若い男に好意を寄せられまんざらでもなさそうな反応を見せる三十八歳の人妻など痛々しいだけ――などと心の中で毒づいていると、ふっと二人の声が消え、イヤホンの向こうが静寂に包まれた。
耳を澄ますと、かすかな衣擦れの音が聞こえる。続けて「ん……」、「んん……っ」というゆきの苦しそうな吐息。
「……だめ……」
ゆきがかすれた声でささやいている。いきなりの展開に心臓の鼓動が早くなる。
「……ねぇ、私結婚してるんだよ……?」
「知ってます。迷惑はかけません。だから……」
「やめて……」
「ゆきさん……好きです」
「ん……んむ……」
想いを遂げんとする男と貞操を必死に守る人妻。
「やっぱりだめだよ……もうやめよ?」
ゆきの願いは無視され、衣擦れの音が続く。
「ぁむ……だ……め……」
吐息が荒くなってきた。ハァ、ハァという生々しい息遣いの合間を縫って男女の押し問答が続く。意外と言ってはなんだが、ゆきが抵抗しているのは私にとって意外だった。夫も了解済みなのだから、きっとゆきは、あっさり身体を許したのだろうと考えていたからだ。私の予測は、良い意味で裏切られた。
「ねぇ、Yくん……」
涙声で訴えるゆき。声が震えている。
「ゆきさん……!」
「んん……っ」
「顔を上げて……!」
必死に耐える妻。本気の抵抗に思える。強引すぎるYに怒りが湧いてくる。
「ん……んぐ……っ」
「……ゆきさん……」
「ねぇ……やめよ……おねがい……」
妻の切ない懇願に、聞いているこちらの喉がカラカラに乾く。ゆきは本来、貞淑な常識人なのだということがあらためて思い出される。
「Yくん……どうしてわかってくれないの……?」
特定の一人の男と愛し合いたいというゆきがしばしば吐露する気持ちはあながち嘘ではない。いや、むしろ本音なのだ。人妻として一線を超えるハードルはそれほどまでに高い。
「だって……ゆきさん……」
「んん……Yくん……っ!」
激しい衣擦れの音。男女がもみ合っている。
もうゆき本人から聞いて結末はわかっているのに、ぎりぎりで耐える妻を応援する気持ちが沸き起こる。頑張れ。頑張れ、ゆき――。