背徳と嫉妬の間には(二回目の貸出し、初のビデオ報告)-13
私たちの愛の形が歪んでいるというのであればそれはそれでいい。
おそらくもう一つ歪んでいるものにプラトニック・ラブがある。無論大人の世界での話だ。
プラトニック・ラブは、パンツを履かない生き物同士の恋愛ごっこだ、という説がある。
パンツを履く汚らわしい人間のような動物にはできない崇高な愛の交歓、それがプラトニック・ラブだと説くファンタジスタ・ドリーマー(夢想家)を皮肉った言葉だが、是非や扇情的発言の公益性はともかくとして、一つだけ賛同出来るとすれば、プラトニック・ラブに未来はない、とただそれだけのことである。
私たちも究極ならば、性行為を伴わないプラトニック・ラブもまた究極で、どちらも形的には不自然且つ不完全なものに違いない。
しかし、この両者間に最も多く横たわっている世俗的な愛の形、倫理観や道徳的観念上の愛の形が、もし自然で完全なものであるとするならば、人間はなぜそこに苦悩するのだろう。
不完全な生き物である人間が、愛だけに完璧な形を求めようとするからではないだろうか。
人間が傲慢で不完全な生き物である以上、愛の形もそうであることのほうが、私にはより自然で人間らしく思えてならない。
究極の美化で覆い包んでしまおうというのがプラトニック・ラブであるならば、究極の汚濁にまみれ、不浄の炎で苛もうとするのが私たちの形である。
しかし、どちらも外的影響を強く忌避し、狭小な世界における最大の隷属性を訴求し合っていることには変わりはない。
つまるところ、二人だけの世界の創造である。そこに腐心すればするほどそれは純粋であり、だからこそ対外的には奇異だったり滑稽に映ってしまうのだろう。
私たちの歪な愛とプラトニック・ラブは、一見対極にあるように見えるが、それは現象として眼に映る範囲のことであり、内包するその際立った直情性や純粋性においては、実はまったく同質のものであり、これこそが愛の真理だと私は断言したい。
但し、プラトニック・ラブの概念や形状は薔薇の花の如くこの上なく綺麗だが、人類を滅亡へと向かわせる棘であることも忘れてはならない。
『純真なまで淫乱であれ』
この真逆の意味を持つ言葉同士が結びついたとき、人はより高次な愛の恩恵を手にすることが出来るのだ。