蜜戯-16
施設からの帰り道、何度も転びそうになった。杖の先が定まらなかった。胸の奥の震えが止まらないまま、彼の姿と亡くなった夫と写真の中の若い頃の自分の顔が瞼の裏に忍び込み、つかみどころのない記憶の果てをなぞった。
わたしは冷静さを取り戻すように遊歩道のベンチに座り込んだ。小川の溜まりを見ると、いろいろなものが浮いている。枯葉や小枝、木の実、そして何かの虫の死骸。水面はまるでわたしが失った記憶のように澱み、流れは止まったままだった。
わたしは自分がいったい誰なのかさえわからなくなっていた。彼の遠い恋人だったわたしと、彼の恋人として死んだわたし。そしてわたしが鞭を振り上げた彼は、ほんとうは亡くなった夫だったのか。殻に封じられたすべての記憶が断片となり、迷妄にさまよい、脳裏に散り散りに蠢いていた。
秋に向かう太陽が傾きかけていた。わたしはいつのまにか遊歩道が尽きたところにある教会の裏の墓地にいた。なぜ、自分がこんなところまでやってきたのかわからなかった。
何かに導かれるようにわたしは、十字架が掲げられたひとつの色褪せた墓碑の前に佇んだ。そして墓碑の側面の文字に何気なく目をやったとき、わたしは心臓が止まるほど驚いた。
刻まれた文字は、わたしの名前だった。亡くなった日は、五十年前。刻まれた名前は、すでに遠い時間を示すように苔むしていた。
わたしはよろけるように墓碑の前に膝をついた。胸が苦しくなり、背筋に冷や汗が滲んでいるのを感じた。失った自分と、今、ここに存在する自分が無残な死骸として葬られようとしていた。
わたしは墓碑にすがりつき、止めどもなく溢れてくる涙とともに声をあげて泣いた……。