ライブラの女 バランスの章-1
カルチャースクールの情報通である事務の沢井莉菜から理事長の獅童玄治郎の孫娘、獅童麗子が結婚したと聞かされた。そこで一応形ばかりの祝儀を獅童玄治郎に渡すことにした。
「星樹君。ありがとう」
「いえ。では、これで」
「待ちなさい。君は良かったのかね?」
玄治郎は深い色の悲哀に満ちた眼差しを向けてくる。
「君は麗子と懇意だったのだろう?」
無言のまま立ち尽くしていると玄治郎はふうっとため息を吐き出しながら窓の外を眺めて語りだした。
「残念だな。わしと蘭子の事を思い出すよ。わしは経営者として成功したかった。蘭子にも贅沢をさせてやりたかったしもっと活躍させてやりたかった。だが……」
僕の占星術の師である紅月蘭子は探究者だった。現実世界の、俗な物質社会にはあまり関心がなかったようで玄治郎の望みは空回りしたようだった。僕が知っている蘭子はいつも同じ漆黒のローブを身にまとい、少しだけ紅を引き五芒星のタスマリンのペンダントを身に着けるだけのシックな装いだった。
彼女の書斎のデスクの隅にはガラスのケースに入った身に着けられることのない金細工の蘭の花のブローチが飾られていた。きっと玄治郎が贈ったものであろう。恐らく二人は全くの逆のタイプがゆえに惹かれあい交わることが出来ずに決別したのだろう。
それでも愛する気持ちがなくならず形を変え友人と言う形に落ち着いたらしい。一度だけ蘭子の玄治郎への想いを聞いたことがある。
『彼は私が唯一自分を忘れて、失くしてもいいと思った男よ』
しかし彼女は自己を保った。そして彼女の持つ技術を僕ら弟子に渡し、育てることへ邁進した。
「麗子はわしの血を受け継いでいるな……。一族には縛られることなく自由に生きろと言ってきたのだがね」
「彼女は自由に生きた結果が今の状態だと思いますよ」
「そうか……」
仮に僕と一緒になってしがない星読みの妻など麗子に合うわけがなかった。麗子と横に並ぶ姿など全く想像ができなかった。
「麗子さんの幸せを心からお祈り申し上げます。では、これで」
「うむ。ありがとう」
理事長室から出て少しばかり足をひきづりながらスクールを後にした。
失恋でくさくさするので馴染みのバーに寄った。森の中の静かな家に帰る気が起きない。ロックグラスの大きな氷を眺めながらぼんやりしていると「こんばんは。お隣よろしいかしら?」と華やかな声がかかった。
見上げると柔らかそうなふわっとしたパーマヘアで優美な雰囲気を持つ三十代半ばくらいの女が立っている。
「どうぞ」
「ありがと」
含み笑いをしてすっと隣に座った。
「そろそろ梅雨ですね。気持ちが暗くなっちゃう」
「ええ。全くです」
彼女はマスターに「いつもの」と頼んだ。寡黙な彼は「はい」と一言だけ応え黙々と作業を始める。
差し出されたショートスタイルのカクテルに口をつけ彼女は優雅に「美味しい」とにっこりほほ笑んだ。
「初めて見るカクテルですがなんて言うんですか?」
「ウェットドリーム。よく意味が分からないんだけどマスターが名前をあまり言わない方がいいって」
「なるほど……」
ウェットドリームとは確か夢精を意味する。我、関せずのマスターがお節介を焼くだけはあるなと秘かに笑んでいると、マスターの軽いため息が聞こえた。
「お目にかかったことはないですけど、この店にはよく来られるんですか?」
「月に一回だけなの」
こんな風に常連同士でも会わないことが多いのが人との縁なのだろうなとしみじみ思ってグラスの氷を鳴らした。
「私は一度あなたを見かけたことがありますよ。若い女の子と一緒だったかな」
「若い女の子ねえ。うーん。ああチセちゃんかな」
「モテそうですよね。なんか不思議な感じ。変わったお仕事してそうね」
「まあ、変わってるかも」
胸ポケットから名刺を差し出した。
「へー。占いの先生なんだー」
「君はアパレル関係?ファッションがとても個性的だけど」
「ううん。ただのお勤め。このワンピはフランスのアンティークなの」
「こだわりがあるんだね。天秤座かな?」
「うわー。すごい。その通りです」
彼女は秤谷美佳と名乗った。アイボリーのシャツワンピースの胸もとを大きくはだけスカーフをゆるく巻き、アンニュイな雰囲気が醸し出されよく似合っている。こういう着こなしでだらしなくないのが天秤座の優美さであろう。
「緋月さんは自分のコト占うの?」
「いや。元々自分の事はあんまり観ない方だけどプロになると全然だね」
「そんなもんなんですね」
表面を撫でるような気楽な会話は今の僕に心地よかった。占い師と名乗ると大抵は観てほしいと手のひらを差し出してくる。僕は手相を観ないのでと今まで何度となく断ってきた。
美佳は女性にしては珍しく『占い』に食いつくことなく穏やかな一定のテンションで話しかけてくる。優雅な湖畔にでもいるような心地よさと同時に麗子への渇望も蘇った。
本能がむき出しになる麗子と、まるで本能などないというように微笑む能面のような美佳を比べていると胸が苦しくなった。思わず美佳に当たりたくなるような嗜虐的な衝動が芽生えてくる。感情的な自分に気づき、表面化する前に立ち去ることにした。
「じゃ、僕はこれで」
さっと勘定を済ませ店から出て歩いた。