芳恵が泣いた-1
昂った気が鎮まり始めると、僕は瑠璃子夫人の肝の太さがわかり始めた。救急隊員がなだれ込み、AEDを老人の胸に当て、顔を顰める。彼をストレッチャーに載せ、夫人を呼んで、事務所から消えて行った。
救急車が来るまでに、夫人は夫の名誉と、芳恵の羞恥、そして閉所間際の事務所の未来を慮った、シナリオを語り始めた。
鴨居老人と芳恵がふたり、事務所で業務をこなしていたところ、鴨居老人が急に胸を掴んで苦しみ出した。慌てて立ち尽くした芳恵の前に、僕らが帰ってきて、心臓マッサージを始める間、救急車を呼んだ。そんな単純なストーリーだが、単純なほどに真実味がある。救急隊員は終始頷いて聞いていた。
人の命の間際が嘘によって覆われることに、少し胸が痛んだものの、僕は考えた。死んだ者のことよりも、生きている人のことを考えるべきだ、と気づいたのだ。
救急車が喧騒と共に去り、残った僕らは互いに目を見合わせる。芳恵が僕に縋りつこうとし、そのちょっと前、ほんの少し前に僕は芳恵を腕に抱こうと両手を差し伸べていた。彼女のカラダは震えている。震えが止まるよう、僕は強く抱きしめた。
どれほど時間が経ったろう、芳恵が目に涙を浮かべながら、ポツリと言った。
「恐かった・・・」
僕は何も言えず、黙ったまま、もう一度強く彼女を抱きしめる。彼女も強く僕に縋りついた。
「もう・・・大丈夫・・・」
芳恵が僕の胸にそっと手を置き、押しのけるようにして、彼女は距離を取った。なぜ?彼女が僕から逃げるような仕草をしたのか?その疑問がすぐに沸き、そしてすぐに彼女の口からその答えを聞いた。
「アタシ・・・先生に・・・レイプされたの・・・」
僕はピクリとも動かなかった老人の股間にある、奇妙なペニスが濡れていたことを思い出した。縛られた彼女の、まるで老人という祭壇に、恥部を捧げるような恰好の芳恵の姿も思い出す。
僕は何も言うなと言わんばかりに、彼女をもう一度引き寄せ、芳恵の顔を僕の胸に押し付ける。芳恵がしずしずと泣き出した。