形姿(なりすがた)-9
女はマティーニを飲みほすと急に立ち上がり、ハンドバッグを手にした。
セックスの前に主人の裸の背中を確かめさせていただくわ。鞭の痕が残っていないかどうか。女はそう言うとわたしを残して店から出で行った。
それからわたしは、二度とサワダと会うことはなかった。
久しくご主人に会っていない。わざと避けている。ご主人にあったら、あの作品が脳裏をかすめていきそうで、次の作品への創作意欲が削がれるような気がした。
朝から降っていた雨が、気がつかないうちに止んでいた。傘をたたみ、街の雑踏の中をあてもなくひたすら歩き続けた。わたしを取り囲む風景が希薄になり、息が苦しくなるほどわたしは自分を失いかけていた。いつもの骨董品屋をのぞき、デパートのエスカレーターを昇っては降りることを繰り返した。
作ろうとする陶器のイメージは思い浮かばない。わたしは、自分をかたちにしたかった。わからない自分を。でも、わたしは自らの手で、自分自身をかたちにすることはできない。だからわたしは縛られた自分の緊縛写真を撮り、男の命令で鞭を振り上げた。自分をかたちにするために。
デパートの外に出ると、重くよどんだ空気が身体に絡んでくる。歩き出す方向に迷っていた。
ご主人に会いたかった。会いたいのに、会いたいという気持ちが漠としていた。ご主人の名前も、何をしている人かも、どこに住んでいるのかも、連絡先も知らない。いや、そういうこと以上に、わたしにとってご主人が《いったいどんなかたち》をしているのかにわからなかった。それはきっとあのスーツケースのせいだと思った。ご主人がケースの中から取り出したものが、彼のかたちであり、わたしをかたちにしそうだった。それを望んでいるのに素直になれない自分がいた。そしてご主人に会わない時間だけがどんどん過ぎ去っていった。
気がつかないうちに夏が終わろうとしていた。
その日は友人の結婚式だった。式のあいだもわたしは、次の作品のことを考え続けていた。教会でのささやかな結婚式とパーティが終わったあと、ひとりになったわたしは電車に乗って、夜の街を歩き続けた。
いつのまにか、ご主人がいる喫茶店の前にいた。わたしは中に入るのをためらっていた。一度は立ち去ろうとしたとき、不意にご主人が店から出てきた。
まるで今までわたしを待っていたかのような顔をしたご主人は、今から帰るところですと言うと、いつもの穏やかな視線でわたしを包み込んだ。わたしはご主人とぎこちなく向き合った。
「いつもの男っぽい服装ではなくて、今夜のかおりさんは別人のようにきれいです」とご主人は言った。そういえば、ご主人の前ではいつもジーパン姿のわたしは、結婚式用にレンタルしたドレス姿だった。
ご主人はわたしの足元に視線を注ぎながらにっこり笑った。「足首もハイヒールもとても素敵です。いえいえ、足首だけでなく、あなたのすべてが……ですよ」
足首をご主人の視線でなぞられただけなのに、わたしは、まるで自分の裸を見られているように恥ずかしかった。
「少し歩きませんか。夜風がとても気持ちいいものですから」
わたしはご主人に寄り添うように歩き始めた。微かに風が吹いているのか、水路に沿った並木道の傍に咲いた白い花が、夜の月灯りのなかで微かに揺れている。
「仙人草(センニンソウ)という、夏の終わりを告げる花です」とご主人は言った。
夏は終わろうとしていた。でも、わたしには次の季節が見えてこなかった。
「久しぶりに会ったのに、浮かない顔をしていますね」
いつもの穏やかなご主人の声が香りのいい匂いを運んでくる。濁りのない、澄んだ匂い。
「なかなか次の作品にとりかかれないのです」
「ほう、それはまたどうしてですか」
そう言ったご主人の手がわたしの腰を優しく引き寄せた。ご主人の体温と匂いがとても近くに感じられた。
「自分がつくろうとしている作品のかたちがわからないんです」
「べそをかいたような顔をしないでください。素敵な顔がとても悲しく見えます」ご主人はにっこり笑った。
水路に流れる水の音は、まるでご主人の心の奥から溢れてくるように静かで、おだやかで、途切れることがなかった。
ご主人は言った。「それは、きっと自分のかたちがわからないからでしょうか」
「わたしのかたちって、いったい何なのかしら……」
「人のほんとうのかたちは、見えないものかもしれません。たとえば憎んだり、嫉妬をしたり、悲しんだり、つらい思いをするときの自分のかたち、もしくは恋するかたちや愛し合うかたちも。そのとき、自分はどんなかたちをしているのか……」
ご主人はそう言って、わたしより少し前に歩き進むと不意に立ち止まり、夜空を見上げた。満月の夜はとても明るくなっていた。