形姿(なりすがた)-6
「そうかもしれないし、そうでないかもしれません。少なくともぼくと言う男は、女性の足首に顔を感じ、彼女の性格や心を感傷としてとらえます。いじめたくもなり、ひれ伏したくもなり、愛したくもなります。その女性が望んでいることを足首に感じ、何もかも尽くしてあげたくなるのです」
やだぁ……ご主人って、ただのヘンタイかしら。
「亡くなられた女性にも、そんな感傷をいだかれていたのですか」
言うべき言葉ではなかったかもしれないとわたしは思った。ご主人はじっと流れている音楽に浸るように天井を見つめ、戸惑った顔をして言った。
「ぼくたちは愛し合っていたのに、互いの愛のかたちがわかりませんでした。だから愛し合うことは、いつまでも感傷なのです……」
わかったようでわからない言葉だった。やっぱり、わたしにはアイっていう言葉がよくわからない。
ご主人はその女性の話を始めた。
「そのときすでに子供がいた彼女には、死に別れた夫がいました。でも、彼女が結婚する以前、ぼくたちは恋人同士でした。少なくとも互いを恋人と思っていました。でも、さっきも言ったように愛し合う《かたち》が見えませんでした。結局、ぼくたちは愛を確かめ合うこともなく、気がついたときには、彼女はぼく以外の男性と結婚していました」
ご主人は顔色ひとつ変えることなく、淡々と語りながら煙草に火をつけた。
「でも、ご主人は、結局、その女性とふたたび再会することができたのでしょう……」
わたしがそう言うと、ご主人はじっと天井を見つめ、何か遠い記憶をかき消すように薄い紫煙を吐いた。その煙は、なぜか物憂い溜息の色をしていた。
「過去の記憶を癒しあう関係でしょうか。いや、そういう関係しかぼくたちのあいだには残っていなかった……」
わずかに開いた窓のすき間から、心地よい夜気が漂ってくる。色彩のない時間だけが静かに流れていく。
「実のところ、ぼくは、彼女が死ぬまで一度も彼女を抱いたことがないのです。いや、抱くことができない体なのです。ええ、お恥ずかしいことに男性器の不能といったところでしょうか……」と言ってご主人は頬を微かにゆがませた。
フノウって……えっ、そうなんだ。わたしは、じっとご主人の顔を興味深く、しげしげと見つめた。
「変でしょうか……恋い焦がれた女性と交わることがなかったことが。いや、それ以上にぼくたちは、互いのからだの中にある、求め合うべき《互いのかたち》がわからなかった……」
外は黄昏色に染まりつつあった。店の老婦は、わたしたちの会話に関心がなさそうな顔をして手元の本を読んでいた。
「で、どうされたのですか」
「ぼくは、裸の彼女をベッドに縛りつけました。そうするしかなかったのです。彼女もそれを望んでいたし、彼女をそうすることで、彼女がぼくだけのかたちになる気がしていたのです。もちろん足首も縛りました。縛った彼女の足首はあなたの足首と同じようにとても美しいものでした」と言って、ご主人は笑った。
「ご主人って、ほんとうはSじゃないんですか」
そう言ったわたしの声を置き去りして、ご主人は、もの思いに耽るように窓の外にじっと視線をそそいだ。
「彼女は、ぼくが鞭を振り上げることを望んでいたかもしれません」
まちがいないとわたしは思った。あのスーツケースの中には、きっと亡き恋人の懐かしい記憶として、鞭と縄が忍ばせてあるに違いなかった。独りよがりの空想は、次々と空想を呼んだ。
「ぼくたちの愛し合うかたちがあるとすれば、ぼくが彼女を痛めつける《かたち》しか残っていなかったのです」
「それで、ご主人は、縛りつけたその女性に鞭を振り上げたのですね」とわたしは言った。
ご主人は、遠い記憶を微かに撫でたような笑みを浮かべた。「そうなったかどうかは、かおりさんの想像におまかせします」
いつのまにか外はすっかり暗くなっていた。ご主人と店の前で別れ、帰りの夜道でわたしは途切れた雲のあいだに煌めく星を見上げた。空気はとても澄んでいた。頬をなでながら通り過ぎていく夜風にわたしがかき消されていくようだった。
空想が現実となり、わたしを安心させていたような気がした。あのスーツケースの中のもので、もしかしたら、わたしがご主人のものになるかもしれない。ご主人が鞭を手にすることで、ふたりだけにわかる、互いを舐め合うように分かち合えるかたちを得ることができる……そのことを考えただけでなぜか胸が熱くなる。
フノウの男とフカンショウの女……わたしは、ふと考えた。ご主人の感傷のなかで、わたしはどんな風に描かれるだろうかと。ご主人がわたしを縛り、鞭で痛めつけられる苦痛は、からだを交えるよりもわたしを高みに導いてくれるかもしれない。わたしはご主人から与えられる苦痛をとても欲しいと思った。なぜなら、その苦痛はきっとわたしのかたちを浮かび上がらせてくれるのだから。