アヤノ-10
「薬は綺麗に抜けた様だね。気分は悪くないかい?」
『はい、大丈夫です。』
その日の午後、私は恭吾さんに付き添われ、再び医師の診察を受けた。
そして恭吾さんの言葉通り、私は日常へと戻された。
「今後も警察や麻取の人間が話を聞きにくるかも知れないが、それ以外は普通の生活をして構わないんだよ。」
『はい。』
恭吾さんは常に、私を気遣うように接してくれた。
落ち着いた物腰、暖かい眼差し、優しい言葉。恭吾さんが側にいてくれる事で、私の心は安らぎを感じていた。
けれど、修の事を忘れてしまった訳ではない。むしろ彼への罪悪感は更に大きくなる。
『部屋には…、帰れません。』
アパートの前まで送ってくれた恭吾さんに、私は言った。
「どうして?」
部屋に戻れば、嫌でも修との想い出が目につく。
『側に…いて下さい。』
少し戸惑う様な仕草を見せる恭吾さんに、私は我儘を押し通した。
『独りは怖いんです…。独りでいたら、頭がおかしくなってしまいそう。』
そう言ってうつ向いた私の頭に、暖かな掌が乗せられた。
恭吾さんは、部屋に戻りたくないと言う私の我儘の理由を察してくれた様だった。
「わかった、…ずっと側にいるよ。」
その言葉がとても嬉しかった。
初めて出会った時から、恭吾さんは私が最も必要としている言葉をくれた。そして恭吾さんの態度が、その言葉がうわべだけの、薄っぺらな物では無い事を私に証明してくれていた。
「気持ちが落ち着くまで、うちにおいで。」
気付いた時、俺は彼女を抱き締めていた。
『…ありがとう……ございました。』
彼女は掌で顔を覆い、涙を必死に抑えようとしていた。
昨夜から、ずっと心が不安定なのだろう。彼女の大きな瞳から、涙が溢れるのを目にするのはもう何度目だろう。
彼女の涙を目にする度、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
「もう泣かないでくれ…。もう君の涙は見たくないんだ。」
俺は彼女の頭を、腕で包み込むように抱き締めた。
「もし君が…独りで眠りに付けないのなら、俺は君が眠りに付く事が出来るまで側にいる…。朝独りで目覚めるのが怖いのなら、朝まで側にいる…。独りで食事をするのが淋しければ、何時でも食事を共にする…。そして君が悲しみに涙を流すなら、俺は涙が止まるまで…いつまでも側にいる…。君が心の支えを必要とするなら、俺は全力で君を支える…。」
俺の言葉に、彼女は驚いた様に目を見開いた。
「もう、これ以上自分を責めないでくれ。」俺は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ、彼女に言った。
『………はい。』
俺の言葉をどう解釈するかは、彼女に任せるつもりでいた。
だが俺は決めていた。彼女が独り悲しみに涙を流すのなら、俺はいつまでも彼女の側にいて、涙を拭ってやろう、と。
そして、彼女が悲しみから脱け出した時、その時は何事も無かったかの様に、彼女の前からは消えよう、と。
未来の彼女がどんな選択をするのか、今の俺にはわからない。
事件の事は、記憶の奥深くにしまい込み生きるのか…。忘れる事はせず、記憶に刻みこんで生きるのか…。
だがどちらにしろ、悲しみから脱け出した未来の彼女にとって、俺は辛い事を思い出させるだけの存在になってしまうだろう。
だから…彼女が自分の未来を見据え、しっかりと自分の足で歩き出す事が出来る様になった時、俺は笑顔で彼女を送りだそう。