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下屋敷、魔羅の競り合い
【歴史物 官能小説】

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艶之進、唸る肉刀-9

「暗くて定かではありませぬが、ついてきてくださいまし!」

 凜は艶之進の手を取るともう片方の手で塀をなぞりながら小走りになった。
 下屋敷の邸内は広いうえに建物が入り組んでおり、二人は脱出に難儀したが、ようやくのことで門外へ出ると、夜の巷は烈震のせいで混乱の極みだった。御府内(江戸市中)あらゆる所から火の手が上がり、崩れ落ちた屋根瓦、倒れた塀、逃げ惑う人々、まさに地獄絵図であった。その最中を、艶之進は凜とともに駆け抜けていった……。
 世に宝永の大地震と呼ばれる巨大地震が起こったのは、宝永4年の秋であった。震源地こそ四国沖だが、江戸の町も大いに揺れ、地震のひと月後には富士の山腹五合目付近が大噴火を起こしている。

 そんな激甚災害を経て数ヶ月後。
 火山灰の処理がまだ追いつかない中、艶之進は魔羅くらべで共に競い合った二倫坊の長屋を探し当て、訪ねていた。凜も一緒である。
 二倫坊は、ちょうど溝に溜まった灰の泥をすくっているところだった。四十がらみの尼僧も一緒だ。かつて二倫坊から聞いたことのある、近くの尼寺に住む訪春院というのがこの女性のようだった。

「失礼いたす。二倫坊どのに用向きがあってまかり越した」

 艶之進が挨拶すると、二倫坊は怪訝な顔で腰を伸ばした。

「誰だ? てめえ」

「拙者でござるよ。いつぞやの魔羅くらべで一緒に競い合った……」

「…………あで之進か? ……こりゃあ驚いたぜ。ボザボザの前髪だったのが綺麗に月代(さかやき)を剃ってるんで、初めは誰だか分からなかった。いやあ、久方ぶりだなあ。生きていたか」

 笑いながら近づく二倫坊の腰はシャンとしていた。どうやら腰痛は治ったらしい。

「もう少し早く訪ねてくるつもりだったが、富士のお山の噴火やら何やらで今になってしまった」

「お? おめえの後ろにいるのは、たしか、腰元の凜じゃあねえか。どうした?」

 艶之進は幾分照れて頭を掻いた。

「じつは、そのうち、夫婦(めおと)になるつもりでな」

「ほう、それは目出度い。だが、凜は腰元だから、れっきとしたお武家の娘だろう? よくぞ、おめえのような素浪人と夫婦になれるものよ」

「それは……あれだ、拙者も今は分限者(金持ち)になったのでな」

「分限者? ……おっ、そうか、魔羅くらべでとうとうおめえが勝者になったか。知らなかったぜ。なにせ、なまずの大暴れ(地震)で世間の噂はそっちの方面ばっかり。下屋敷での顛末など聞こえてきやしねえ」

「そうだろうな……。あ、それでな、今日はおぬしに分け前を渡しに来たのだ」

「分け前?」

「魔羅くらべの時に申したではないか。決勝に進むことが出来たのは二倫坊、おぬしの奮戦のおかげでもある。もしも最後も勝てたなら、賞金の一部を差し出すので、その時は受け取ってくれよ、と」

「ああ、そんなこともあったような……」

 腕を組んで斜め上を見る二倫坊の後ろで、凜が訪春院に挨拶をしていた。訪春院は二倫坊と閨を共にする仲らしいが、こうして昼日中から二人でいるところを見れば所帯を持つ関係と言われても疑問は抱かないだろう。

「分け前をくれるというのなら遠慮なくもらい受けるが、一体、いくらくれるんだ?」

 そう言う二倫坊の目の前に艶之進は小判を二十枚差し出した。

「ええっ? 二十両もくれるのかい? ……えらく気前がいいなあ。賞金の半分近い額じゃねえか」

「じつはな、なゐ(地震)騒ぎの折、賞金の手形の入った文箱を下屋敷から失敬したんだが、その中には五十両の手形の他に、もう一枚別のが入っていたんだ」

「ほう……、で、そのもう一枚の手形に書かれてあった額は?」

「百両」

「ひゃ、百両?!」

 二倫坊は飛び上がった。

「合わせて百五十両……。あで之進、おめえのようなさんぴんが両替屋に出向いたって、そんな高額な手形を換金してくれるものかい?」

「賞金の手形の他に、別件で五両もらっていたのでな、その金で髪結床へ行って月代を剃り、三井越後屋で上等な着物をあつらえ、刀剣商で新たな大小を揃え、身なりをきちんと整えた上で両替屋へ参った。失敬した文箱には印鑑も入っていたので問題はなかったよ」

「し、しかし、松平家から両替屋へ換金差し止めの話が行っていたら……」

「なゐ騒ぎでそれどころではなかったようじゃ。……もっとも、拙者が出来うる限り素早く動いたからのう。あと少しのんびりしていたら差し止めになっていただろう。あ、それから、両替屋の親爺には袖の下(わいろ)をたんまり渡しておいた。拙者の顔は忘れてくれるように言い含めてな……」

「おめえ、とろそうに見えて、そのじつ、頭の回転が速いんだなあ」

「いや、この凜どのの助言もあってな……」

 艶之進が凜を招き寄せる。松平家下屋敷において彼女は奥向き薙刀警護の他に帳簿の手伝いも少しやっており、手形うんぬんのことを艶之進に教えたようだ。

「ところで凜よ、今は何してるんだ? 腰元をやめて」

 凜は涼やかな笑顔で二倫坊に答えた。

「腰元をやめてなどおりませぬ。なゐのあった夜は艶之進様と共に下屋敷から逃げ出しまして、翌朝、文箱の中身を知って二人一緒に驚きましたが、いつまでも戻らぬと不審に思われまする。翌晩には帰って荒れた屋敷の後片付けの一員となりました」

「まあ、確かに、戻らねえとどうしたんだと思われるわなあ」

「艶之進様は行方知れずとなりますし、手形の入った文箱は消えるしで、一時は艶之進様が疑われました」

「そりゃそうだ」

「しかし、わたくしは用人どのと老女様へ申し上げました。力蔵騒ぎの時、取り逃がしたならず者数名がおりましたが、そやつらが老女様の部屋から文箱を盗み出すところを、この目で見たと……」


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