サクミと朔太郎-3
朔太郎が駅の救護室で治療を受けている頃、
サクミはほとんどガラガラ状態の電車に乗っていた。
サクミの心臓はまだ高鳴ったままだった。
男子高校生のズボンを下ろした時に見つけた、
タグに書かれた『朔太郎』という名前。
単なる同名なのだろうか。
名前自体、どこにでもあるという名前ではないような気が以前からしてはいた。
だからいつかどこかで会えるのでないか、
そんな漠然とした期待がサクミの中にはいつもあったのだ。
しかし心臓の高鳴りがいまだに収まらないのはおそらくそれだけではないだろう。
『朔太郎』というタグをつけたあの男子高校生が、
さっきまで、あの校舎からサクミを見ていた男と同一人物なのだろうか。
だとすれば自分は、憧れの人にとんでもない姿を晒していたことになる。
サクミはタグを見てからのことをほとんど覚えていなかった。
男子高校生が自分の胸を思い切り掴んだことも、
治療のためと言って高校の保健室に誘ったことも、
その後の様々な会話も、今となってはほとんど思い出せなかった。
ただ、話を続けるうちに、男子高校生の鼻からなぜかしら大量の鼻血が出始め、
サクミが声をかけてもまともな反応をしなくなって、
あわてて駅員室に飛び込み、駅員に事情を話したことだけは覚えている。
男子高校生を駅員に引き渡した後、呼び止める駅員を無視して、
サクミはホームに入って来た、自分の家とは反対方面の電車に飛び乗っていたのだ。
(あの人が朔太郎、君?)
おぼろげな記憶だったが、サクミは彼の持っていたバッグの中に、
かなり高級そうな一眼レフらしきカメラと、
望遠レンズが入っているのを見たような気がしていた。
スマフォやタブレット全盛の今、一眼レフカメラを持ち歩く高校生など、
そう多くはないような気がする。
写真部、あるいはかなりの写真マニア、
いや、ひょっとすると盗撮魔の可能性だってないとは言えないかもしれない。
サクミは露出の最中、
男子校の教室のまでガラス越しに夕日を反射する、
カメラのレンズらしきものを見たことを思い出した。
ひょっとして、あの朔太郎という男子学生。
わたくしの露出を撮影しようと、あの教室で待ち構えていたのでは?
サクミは一瞬そう思った。
しかし今日、サクミがあの教室で、あの時間に露出をすることを知っている人物など、
どこにもいるはずはなかった。
サクミ自身が誰にも話していない以上、当然のことである。
つまり、男子高校生たちの今日の行動はすべてが偶然なのだ。
サクミの露出を撮影しようとあんな機材を用意し、
サクミの教室がよく見える男子校の教室で待機していたなど、あり得ないのだ。
つまり、もし朔太郎があの高校生の中の誰かだとしても、
カメラを持っていたのは単なる偶然と言うことだ。
逆に考えれば朔太郎は日常的にああしたカメラを持ち歩いている人物だということだ。
だとすれば、
3年ほど前のとある中学校の文化祭である教室で行われていたメイクショーを、
たまたま覗いた誰かが撮影し、
たまたまよく撮れたサクミのあの写真を、
最寄りの写真館へ持ち込んだのか、
あるいは、現像を依頼された写真館が素晴らしい写真との評価をして展示したものか。
いや、あの朔太郎という高校生の家が写真館というようなこともあり得るのではないか。
サクミは自分の家からどんどん遠ざかる電車の中で、
スマフォを取り出し、近隣の写真館の検索を始めた。
朔太郎……。たしか、苗字も書いてあった。なんだっけ。
中学校の近くの写真館に飾られたサクミの写真と撮った朔太郎。
そして、さっき偶然出会った朔太郎という男子高校生。
出会った場所のすぐ近くの男子校の窓から自分の露出を見ていた男、
サクミはその3人が同一人物のような気がしてならなかったのだ。
検索の結果、サクミの中学の近くにあった写真館はもうすでに無くなっていた。
デジカメの時代からさらにスマフォの時代になり、
現像やプリント自体が過去のものとなった今、写真館の数は減っているようだった。
サクミと「朔太郎」を繋ぐ糸はこれでプツリと切れてしまった。
(いえ、そう簡単には諦められませぬ。朔太郎君があのメモに気づいてくれれば……。)
サクミは駅員を呼びに行く直前、
自分のアドレスを書いたメモを朔太郎のズボンのポケットに入れたのだ。
《3年前、わたくしの写真を撮ってくれませんでしたか?》
自分が冷静さをなくしていることは何となくわかっていた。
ペンを持つ手が震え、自分のアドレスを何度も書き直した。
それ以上のことを書くのは、時間的にも気持ち的にも無理だった。
さっき、自分は、学校の保健室に行って治療するようなことを言ったような気がする。
何も考えないまま、あの保健室のことを口にしてしまったが、
自由に出入りができる保健室の存在など、第三者に公言することではなかった。
それに、サクミにはあの保健室にまつわる様々な秘密があった。
あの保健室に男性を誘うということは、つまりはそういうことを意味するのだ。
さっきのサクミにそこまでの思いがあったかどうか、
サクミは思わず口を出てしまった言葉を元へ戻せたならと後悔していたのだ。
サクミはようやく次の駅で降り、反対側のホームに来る電車を待った。
次の電車まではまだ30分近くある。
サクミはホームの椅子に座り、目の前に広がる夜景をボーっと見ていた。
【さて、この際、電車が到着するまでの時間を使って、
サクミがなぜ長年、会ったこともない朔太郎なる人物に憧れていたかを
話しておこう。】