卑劣な男-1
悠司の一件からしばらく経った、初夏のある日のことだ。
午前中の授業を終え、両手に教材を抱えながら廊下を歩くユリは背後から誰かに声を掛けられた。
「先生、……ユリ先生!」
立ちどまり振り返ると、ユリを呼び止めたのはこの学校の用務員をしている人物だった。髪の薄い中年の男で、いつも灰色の作業服を着ている。名前は確か――
「ああ……黒谷さん。何かご用ですか?」
少し苦労したが、ユリはなんとか男の名前を思い出す。
「忙しいところすみませんね。実は、先生にちょっとお聞きしたいことがありまして」
額の汗を手で拭いながら黒谷は言った。
「はぁ……何でしょう……?」
黒谷の顔は知っていたが、まともに口を利くのはこれが初めてだ。一体どんな用があるというのか。キョトンとしているユリに、黒谷は得体の知れない意味深な微笑を見せた。
「それが、ちょっとここでは話しづらいことでして。できれば二人きりでお話ししたいので、すみませんが用務員室まで来てくれませんか」
場所を変えようと言う黒谷をその場で待たせて、ユリは教材を置きに一度職員室へ戻る。昼食は後回しになってしまうが仕方ないだろう。
*****
促されるまま、ユリは旧校舎の片隅の一室に初めて足を踏み入れた。
そこはユリが想像していたよりも広かったが日当たりはあまり良くないのだろう、まだ昼だというのに薄暗く、どことなく陰気な雰囲気が漂っている。使い古された安っぽいソファーセットに古びた小さなテレビ。木製の棚には、何に使うか分からない機械の類やビニールテープ、工具箱などが雑然と置いてある。
殺風景な部屋だ。その上、古いエアコンは大きいだけで効きが悪いようだった。仕事がない時間はこんなところで過ごしているのか――そう思うと、ユリはなんだか黒谷が気の毒になる。
「こんなむさ苦しいところにお呼び立てして申し訳ありませんね。どうぞどうぞ」
黒谷に勧められ、ユリは古びた合皮のソファーに腰掛けた。
「いえ……それで、私に聞きたいことって?」
ユリが切り出すと、対面に座った黒谷はゆっくりと口を開いた。
「実はね、私には少し年の離れた弟がいるんですよ。身内の私が言うのもなんですが、私なんかとは違って優秀でね。教師をしてまして」
唐突な身の上話にユリは面食らう。まさかこんな話をするためにわざわざ呼んだわけではないだろう。
怪訝な顔をするユリをよそに、黒谷は汗を拭いながら話し続けた。
「ストレスで身体を壊しちまって、結局辞めちまったんですがね。モンスターペアレントってやつですよ」
「あの、黒谷さん、本題を……」
真意を測りかねて、ユリはつらつらとしゃべりつづける黒谷を遮る。
「おっと、これは失礼」
勿体つけて言うと、黒谷はユリの方に身を乗り出した。
「やっぱり、子供達に勉強を教えるのが好きだったんでしょうね。弟はね、今は塾の講師をしてるんです。でね、ある生徒がこないだ鼻にでっかい絆創膏を貼って塾に来たそうなんですよ」
まさか――嫌な予感がして、ユリの鼓動は速くなる。
黒谷はまたもや意味深な微笑を浮かべると、声のトーンを落とす。
「他校の生徒に殴られたんだって言ってたそうですよ。出来の悪い生徒を持つと苦労しますね、ユリ先生……」
追い打ちをかけるような言葉にユリは血の気が引いていくのを感じた。間違いなく、黒谷は悠司の一件のことを言っているのだ。
黒谷は顔色を探るようにユリを覗き込んでくる。何もかも知っているぞ――目がそう語っていた。
無言の圧力に耐え切れず、ユリは咄嗟に視線を逸らした。
「それにしてもおかしいですね。立派な暴力事件なのに、どうも公になっていないようだ。先生、どうしてです?」
黒谷はソファーに深く背を預けながら嬉しそうにしゃべり続けた。遠まわしだが、暗にユリの非を責めているのは明らかだ。一方的にユリを追い詰める自分自身に酔っているのか、口元には嫌な感じのする笑みが浮かんでいる。
「――そんな事実はありません。失礼ですが、黒谷さんは何か勘違いなさってるんじゃありませんか?」
毅然とした態度を装い、ユリはしらを切った。ここで事件が表沙汰になれば悠司は停学になってしまう。同時に、悠司を庇ったユリの責任も問われることになるだろう。せっかく変わり始めたところだと言うのに……。
だが、黒谷はユリの嘘に付き合う気など更々ないようだった。
「生徒を庇いたいという先生のお気持ちは分かりますがね、知ってしまった以上は見過ごすわけにもいかんのですよ。私も雇われの身ですからね」
もっともらしい台詞とは裏腹に、黒谷は随分と尊大な態度に見える。絶対的な優位に立っているという自信がそうさせるのだろうか。返す言葉もなく、ユリは途方に暮れた。自信たっぷりの黒谷を見ると、このまましらを切り通すのは無理だろう。かと言って表沙汰にはしたくない。ならばどうにかして黒谷を口止めしなければ――。
そもそも、黒谷がその気になればいつでも学校に報告出来たはずだ。あえてそれをしなかったのだから、交渉の余地があるということだろう。