水脈-2
K…に妻がいても、彼が《そういう男》であり、自分が彼に欲望される特別の女だと思えば、アケミは彼を受け入れることができた。彼は、アケミの心と肉体を、色褪せた孤独を、純粋に、淫蕩に、支配的に求めてきた。アケミは自分が《そういう女》であること思い知らされ、孤独は虚ろな切なさを増した。彼が操る縄は、まるで彼の腕で抱きすくめるようにアケミを縛り、振り降ろされる鞭は、彼の愛撫以上に彼女を無垢な孤独に追い込んだ。
遠くに微かに感じる街の喧騒が、夕闇に塗り込められている。退屈な秩序が無表情な仮面を脱ごうとしているかのように蠢きはじめている。それはあたかも自分自身であるかのような錯覚となってアケミの肌に忍び込んでくる。不安と切なさが遠い記憶の淵(ふち)をさまよい始めたとき、孤独は美しいまぼろしとなって体を寂しくさせる。
父が死んだときの記憶はなかった。でも、父が幼いアケミの手をひき、彼女を抱きあげた記憶は残っていた。母は父が亡くなった後、アケミを残して見知らぬ男とどこかに消えてしまった。 アケミは、叔父夫婦に養女として引き取られたとき初めて孤独を感じた。
高校を卒業すると瀬戸内海の小さな町から上京した。卒業式の次の日に、アケミは叔父に体を求められ、初めてのものを奪われた。そのことを知った叔母は、アケミの頬に唾を吐き、恩知らずの泥棒猫と罵った。アケミは逃げるように叔父の家を出た。
東京の小さな経理会社で働き、夜の仕事もした。三十五歳のとき、ある広告代理店で仕事をしていた男性と知り合った。どこからか吹いてきた風が、いつのまにか混じるように彼と溶け合った。
一度だけ、彼がアケミに聞いたことがある。アケミって、Mなのか……。
彼の言葉にアケミは思わず笑ってしまった。なぜか、彼が言った言葉がおかしかった。それなのに、初めて恥ずかしさが込み上げてきた。でも、そんな自分の心がとても新鮮だった。
わたしがMだから、あなたはわたしを好きになったのかしら。そう言ったアケミは、彼の視線をとても甘酸っぱく感じた。男を好きになる、ということは、きっとそういうことだと気がついた。彼を好きになり、恋をして、とても深く彼を受け入れ、充たされたセックスをする……初めて自分の心の従順さに気がつかされた。
彼と結婚し、アケミのまわりから過去の彼女の痕跡がすべて取り払われた。殺風景な新興住宅地の中に、ぽつんと建った真新しい賃貸マンションでの生活。彼女の孤独を知る人は誰もいなかった。誰も自分を知らないことが彼女を癒した。夫と共にいる時間が無為に過ぎていった。近くの小さな経理事務所でパートの仕事をして、夫の夕食を作り、帰りを待つ。夫に触れられ、夫のものを受け入れる。孤独であるはずがないのに、なぜかアケミの孤独は、ふたたび心の隅で虚ろに漂い始めていた。
平穏な結婚生活は長く続かなかった。アケミは、夫との生活の中でもがき始めた。いつかしら、ふつうに夫を愛するふりをすることに、ふつうに愛されるふりをすることに、充たされない何かが自分の中にわだかまっていった。夫とともに過ごす日々は、ともに避けあう日々となった。それが幸せなのか、という曖昧な言葉が脳裏を浮遊しはじめたとたん、自分の中の何かが翳ってくる。
互いの言葉がすれ違い、呼吸が乱れ、やがて夫はつかみどころのない対象になる。ベッドに中の夫のしぐさが、夫の唇が、夫の吐く息づかいが、夫の指が、触れ方が嫌になる。セックスが愛だと思い込んだ夫ほど薄っぺらに感じたことはなかった。アケミは喘いだ。夫の囁きに、夫の愛撫に、体の中に含んだ夫のものに。
いつから結婚生活が苦痛になったのか、苦痛はいつも自分の孤独を確かめようとする。アケミは夫の知らないところで、何の理由もなく、何の欲望もなく、何の意味もなく、身勝手に別の男に抱かれた。
そのときから夫が見えなくなった。夫の存在が希薄になり、不眠の中でつかみどころのない悪夢を紡ぎ、夫に対する苛立ちと失意、そしてどこからか切なく押し寄せてくる孤独だけによってほかの男に抱かれることが、なぐさめと癒しになった。夫との言い争いに疲れたとき、これがふたりの生活の行く末だと思い、アケミは夫に別れたいと告げた。
アケミは、家を出て小さな部屋を借りて、夫と別居の生活を始めた。夫はすぐにアケミの居場所を突き止め、追い求めてきた。大雨の夜、ずぶ濡れでアケミの部屋に飛び込んできた夫は、彼女に膝にすがり、どれほど彼がアケミを愛しているのかを涙して語った。まるで憐れな罪人の懺悔のように。そのとき、アケミは自分にすがりついた男が、もう自分の夫ではないと思った……。