犬使いの少女-10
「もぉ、チャオったら急に走り出すんだから……」
珠美はそんなことを言いながらゆっくり起き上がると、
腕から紐をほどいて身なりを整えはじめる。
じっくりと全身についた砂や小石をはらうその様子はまるで何かを探しているように見えた。
そして膝の所で止まっていた視線を俺に向けると、一度大きく息を吐いてから声を低くして話しかけてきた。
「……こんな傷、なめれば治っちゃうよね」
俺が珠美の前へ差し出す膝へと視線を向けると、そこには小石が刺さって出来たと思われる傷があり、うっすらと血が滲んでいた。
「……あたしは、お兄さんの傷、なめてあげたよ」
珠美が上目遣いで俺の顔を探るように覗き込む。
「……お兄さんだって、なめてくれるよね?」
俺が予想外の展開にぼーっとしていると、
「……あたしはあ〜んなとこまでなめたのに……」
と睨みつけてきて俺を脅しにかかる。
「……」
「……この前のこと、ここで大声で言っちゃうぞ」
「……わかったよ」
「え? ……聞こえなかった」
珠美が目を細める。
「……だから、わかったって」
「ん? なあに?」
珠美が手を耳に当てて聞こえない、のポーズをとる。
「わかったよ。言う通りにするよ……膝でもどこでもなめてやるよ」
珠美は頬を赤く染めながら勝ち誇った顔をする。
「えへへへっ」
俺の腰に珠美がしがみつこうとする。
しかし、その瞬間珠美の膝ががくんと崩れ落ち、路上にへたりこんでしまった。
「……」
「……あはは……ちょっと痺れてる」
「……馬鹿だな……そこまでするか?」
「何のことかなぁ? あたし知らなぁい」
「犬が勝手に走りだしたって言いたいんだろ?」
「そうだもん」
「……もう、それでいいよ」
俺は珠美の頭を力を入れて撫でると背中を向けてしゃがみ、身体を預けてきた珠美をおぶって立ち上がる。チャオはすでに俺の足元へと駆け戻ってきていた。
「……せっかくだから、あたしの家までおぶってって」
「珠美ちゃんの家なんて知らないよ?」
「すぐ近くだよ。今の時間は誰もいないからさ、いろんなことできるよ」
「……いろんなことって、あのね……」
「……したくない?」
俺は少し考えたのち、今の自分に正直に答えた。
「……いや、したい」
「えへへへへっ」
俺は大きく息を吐いて横目でわずかに視界に入る珠美を睨みつける。
「まったく……自爆技なんて反則だと思わない?」
「どういうことだかわかんなぁい」
「俺が倒れた珠美ちゃんを無視して行ってたらその後どうするつもりだったんだよ」
「ふぅんだ、絶対に知らんぷりなんかさせないもん」
背後から珠美の両腕が深く俺の首に巻き付いてくる。
俺は自分の頬にぴったりとくっつけてきた珠美の頬の暖かさにようやく悟っていた。
到底俺なんかが勝てる相手ではないということを。
俺は背中にしょったナビゲーターの指示する方へチャオと一緒に歩き出す。
ものの数分でたどり着いたごく普通の一戸建住宅の表札には『新山』と彫られていた。
第3話 おわり