月虹に谺す声・第二章〜摩天楼に唄う小鳥〜-1
昼間は大勢のビジネスマンが働くオフィス街でも、深夜になるとぽっかりと、人の存在しない一角が生まれる。
月の明るい夜、不思議な歌声に誘われて、そんな誰もいないビルの谷間に出ると、そこでは狼に囲まれて歌を唄う、美しい魔女を見ることになるだろう。
だがしかし、その魔女の歌声を聞いて生きて帰ったものはいない。
皆、狼に喰い殺されるのだという。
「なあ、兄さん。ローレライって知っているかい?美しい歌声で船を引き寄せて、難破させちまうっていう海の魔物さ。この街に現れる魔女は、陸に上がったローレライだって、もっぱらの噂だよ……」
立ち食い蕎麦の屋台の親父は、蕎麦の湯を切りながらそんなよもやま話をしてくれた。
それがローレライなのか、蕎麦屋の親父が言う魔女なのかは分からないが、狼に関わりがあると聞いて、屋台に立ち寄った少年は僅かに興味を惹かれた様子であった。
その少年、身なりは浮浪児かといった様子だが顔つきには品の良さがあり、またわずかに翳りがあった。金は持っていそうなので親父は蕎麦を出したが、少年の氏素性を詮索するような野暮なことは口にしない。
「それで、小父さん。小父さんはその、魔女っていうのを見たことがあるのかい?」
小父さんと言われ、蕎麦屋の親父は苦笑した。屋台に寄る客はおやっさんとか、親父さんとか、親しみを込めてもそんな呼び方しかしない。
「いやぁ、いやぁ、こんな噂話は誰も見たことが無いって言うのが当たり前さ。それでも誰もが口にする。こんな商売をしているとね、坊ちゃん、色々あれこれ噂話が耳に入るんだよ」
そう言うと親父は、ざるに入れてぶら下げてあった卵を一つ手にし、少年の丼に割り入れる。
「なに、気にしなさんな。今日は坊ちゃんで最後の客だ。おごりだよ、おごり」
そう言って親父は濁った歯を剥き出しにした。少年は小さく微笑むと、軽く会釈して蕎麦を口にする。
少年が蕎麦を食べ始めると、親父は座り込んで汲み置いた水で汚れた丼を洗い出した。少年も特にそれ以上は口を開かず、湯気を上げる蕎麦を無言ですする。
屋台は街灯の側に出されていたが、足元が妙に明るいことに気が付き、少年はふと空を振り仰いだ。
見ると中天に白い、鏡のような月が輝いている。満月にはまだ日があるだろうが膨らんだそれは暗闇に光る猫の目のようにも見えた。
その後しばらく、客の邪魔をしないように無言でかちゃかちゃと丼を鳴らしていた親父だったが、不意に手を止めると視線をバケツに落とし、思い出したように口を開いた。
「いや、見たことはないんだがね、見たことはないんだが…」そう何度も念を押す親父。「聴いたことはあるんだよ」
少年はその言葉を聞き、親父の方へ視線を戻した。見ると親父は手は動かしているものの、心此処に在らずと言った様子で皿を洗っている。
「何ヶ月か前にさ、屋台を牽いて帰る途中だよ。何処からともなく綺麗な女の歌声が聞こえてきたんだよ。そりゃあもう、俺ぁぞっとしたよ。とんでもなく綺麗な歌声でさ、それで気持ちよくなってふらふらと声のする方へ歩き出したんだ。だけど、それが魔女の歌声だっていうのは知っていたからさ、引き寄せられるのを必死で堪えて反対の方へ逃げ出したんだ。魔女がどんな姿をしているか気になりはしたけど、後ろを振り返る余裕なんて無かったよ。ようやく歌声が聞こえなくなって後ろを振り返ると、路地の奥に何かの気配がしてね。よくは見えなかったんだがあれはきっと魔女の手下の狼に違いねえ…」
そう言うと親父は、額ににじみ出た汗を乱暴に拭い、気持ちを落ち着けるように深く息を吐いた。
「いや、まあ聞き流してくれよ。俺ぁ、あの時どうかしていたんだ…」
そう言うと親父は顔を曇らせたまま、気持ちを紛らわすように再び洗い物に専念し始めた。
するとそこへ、屋台の暖簾をくぐって一人の男が現れた。この辺りのサラリーマンという風ではなく、逞しい体つきの男で、肉体労働者のように日焼けした赤黒い肌をしている。隆起した筋肉の上にはTシャツを着て、頭には長髪をまとめるように緑色のバンダナを巻いていた。少し彫りの深い、やや日本人離れした顔つきをしていたが言葉は流暢な日本語である。