月虹に谺す声・第二章〜摩天楼に唄う小鳥〜-7
しかし、その瞬間。エンパシー効果で月郎の心の闇がツクヨミの頭の中に流れ込んできた。
同胞達の死の感覚。それも一匹や二匹ではない。無数の狼の死が月郎の心に深い傷を作り、それは乾く事も無く血膿を吐き出し続けていた。
「手前ぇ…」
電気に弾かれたようにツクヨミは思わず手を離した。群れで行動する狼のエンパシーは非常に強く、もしツクヨミがそのまま手を離さなければツクヨミの心も暗闇に捕われていただろう。
「あなたと小鳥の世界にはこんな幻は必要ない筈だ。あなたが望めば小鳥と二人で平穏な…」
「ふん。俺が望めばなんだって言うんだ?これは俺が望んだ世界だ。邪魔をする奴は力ずくで排除する。それに、眷属は人間の中では暮らしていけねぇ。正体を隠していたって、社会の中での異物感は拭いきれねぇんだ。それは同じ眷属であるお前が一番良く知っている筈だろう」
「だけど僕は立ち止まりたくない。小さな世界に逃げ込んじゃいけないんだ」
月郎の言葉にツクヨミは押し黙った。月郎の言葉に共感したからではない。理屈はどうであれ今更生き方を変えられる訳でもなく、月郎とは何を話しても相容れないと悟ったのだ。
「何かあの子、変わった」
今まで事の成り行きを見守っていた紅蘭がぽつりと呟いた。最初に会った月郎は心を失い、生気のない瞳をしていた。しかし、寂しげな影は残っているものの今は何か芯の強さが感じられる。
とはいえ、その芯の強さは却ってツクヨミの反感をつのらせていた。心の弱さ、甘さを否定する潔癖さは、ツクヨミの後ろめたさを浮き立たせるからだ。
一歩も譲る気配を見せない月郎に対して、ツクヨミは怒りに総毛立ち、次第にその本性を現し始めた。
いつしかその顔は人のものではなくなっており、変貌したツクヨミの顔は血に飢えた野獣そのものになっていた。
怒りの感情が月郎にも伝わり、その表情が険しいものになる。
その時、不意にツクヨミが何かに反応した。その挙動に月郎はわずかに首を傾げたが、先に何が起こったのか気が付いたのは紅蘭だった。
紅蘭の鼻腔に人間の臭いが感じられ、彼女は眉根を寄せて耳をそばだてた。
「近くまで人間が来ている?」
「ちっ!俺としたことがガキに気を取られて!!」
紅蘭の言葉を耳にするや、舌打ちをして走り出すツクヨミ。
月郎も慌てて後を追おうとし、紅蘭もその後に続こうとする。
「待って、私も!」
紅蘭の言葉に立ち止まり、月郎は鋭く制した。
「駄目だ!紅蘭さんは小鳥を頼みます!」
月郎の言葉に反応し、紅蘭は思わず立ち止まった。
我に返った時には既に月郎は闇の中へ消えており、紅蘭は頬を膨らませて思わず地面を蹴飛ばす。
「莫迦ぁっ!私に命令するなぁ!!」
冴え冴えと街を照らす月光。路地の闇溜りから飛び出してきた獣人は通りかかった男の喉にいきなり掴みかかった。
「面白半分に見物に来られちゃあ、たまんないんだよ!見せしめの為に死になっ!!」
ツクヨミの太い指が男の首にめり込んでいく。
ただ小鳥の歌声に誘われてきただけの男なのだが、ツクヨミにはそんな事はどうでも良かった。
今は現場を見ていなくても、蕎麦屋の親父のように噂を広げるかも知れない。
涙と鼻水を流し哀れな顔をしている男を見てもツクヨミの良心は痛まなかった。人間と狼は同じ群れで生活する種族であっても違う。人は集団で暮らしながら弱者を疎み、異物を排斥しようとする、忌むべき存在なのだ。
ツクヨミの指に力がこもる。
そこへ何か銀色の影がツクヨミの身体を突き飛ばした。
ツクヨミに首を掴まれていた男は開放されてむせ返り、涙の滲む目で周囲を窺った。するとそこには自分の首を掴んでいた怪物の他に、美しい銀色の毛をした狼が立っていた。