亜紀-32
「経理部長とあなたがいなくなってしまっては、本覚寺の経理は滅茶苦茶ね」
「ああ、しかし誤魔化すつもりがなければあそこの経理は難しいことは何もないんだ」
「でも誤魔化していたのね」
「そんなことはどの宗教法人でもやっていると思うけど、査察が入ったということは酷すぎたということなんだろうな」
「健介さんもそれにタッチしていたの?」
「いや。僕は金の入りについてはすべてを任されて記録していたけど、それも領収書の必要な金だけで、領収書の要らない寄付金なんかは僕にはアンタッチャブルだったんだ。金の出のほうと併せて、そういう収入はすべて経理部長が一人でやっていた」
「経理部長はよほど信頼されていたのね」
「管長の親戚だという噂だった」
「そうか。そう言えば管長補佐の話はどうなるのかしら」
「本覚寺を乗っ取るという話か?」
「ええ」
「それは僕が逃げ出した時点でご破算だろう」
「そうか。そうね」
ところが、健介たちは名古屋にいるから分からなかったが、千葉県では大きな話題になっていたようで、殺人事件とか税務査察などが起きた頃から「無理やり修行費を取られた」「寄付を強要された」という訴えが東京や千葉の消費者センターに殺到したらしい。そして驚くなかれ、それから1週間たったころ、本覚寺に詐欺容疑で強制捜査が入り、同時に管長、副管長、管長補佐、先生と呼ばれていた指導教師ら合わせて十数人が一斉に逮捕されてしまった。
「何だか凄いことになっているわね」
「ああ、何だかパンドラの箱をひっくり返したような騒ぎだな」
「私たちもう逃げ回らなくてもいいのかしら」
「そうだな。本覚寺には解散命令が出されるようだから、もう何も恐れることは無いだろう」
「良かった」
「人生には予測もつかないようなことがあるんだな」
「あのね、予測がつかない話がもう一つあるのよ」
「何だ」
「私のお腹にあなたの子供がいるの」
「げっ」
「それは何?」
「それはつまり、こんなにうれしいことは無いなという驚きさ」
「有難う」
妻が事故で死んで1年も腑抜けになっていたというのに、今はもう若い亜紀の体の中に新しい命を作ってしまった。こうなれば結婚しないわけにはいかないだろう。本覚寺の騒動を見極めたら、一度柏市に戻って妻の墓参りに行かなくてはならない。亜紀も連れていくか。この女と結婚するんだよと報告しなければ結婚なんかできないから。これから2度目の人生が始まるんだなと健介は思った。それは嬉しいとか幸せとかいう気持ちよりも神から使命を与えられたような身の引き締まる思いだった。