『BLUE 青の季節』-12
「アホ。金魚のフンじゃねーんだし、そんなにいるわけじゃねえよ」
「宮前なら次のレースに出てますよ」
下級生の一人がそんなことを言って、窓の向こうを指差した。控え室は二階の個室になっていて、そこからメインプールの様子が見てとれた。
遥はコース上のちょうど真ん中に立っていて信が見たときにはすでにスタートの姿勢に入っていた。
「ホントだ。もう出てるね。オイ、信!彼女の出番だぞ」
と美津子が面白そうに言った。信は返事をしなかった。ガラス張りの向こうにいた遥は落ち着きがなくなんだかそわそわしているみたいだった。端から見ればそんな風にはみえないだろう。でも、彼女が緊張すると小指の先がちょっとだけ震える癖を、信は知っていた。
――がんばれ・・・、
信は知っていた。遥がいつも夜遅くまで、自分よりも遅くまで練習してること。ホントはしんどいのに、辛い顔一つせずに無理して笑っていること。
・・・誰よりも泳ぐのが大好きなこと。
――信は知っていた。
レースは始まった。耳を突ん裂くような銃声と共に選手達が水のなかに消えていく。
最初に飛び出したのは遥だった。動きが違う。ウチの水泳部でも屈指の速さを誇る上級生の美津子でさえ、遥の泳ぎには舌を巻く程だった。
50Mを折り返しても遥の優位は動かない。そこで勝負の大半は決まってしまったかのようにさえ思えた。
「あれ・・・・?」
美津子が怪訝な顔つきで信の方を見た。
「あの子、ちょっとおかしくない?」
「え?」
「何か、ほら・・・」
残りわずか10M付近だろうか。遥の足が、とまった。みるみるうちに勢いが落ちてそれは、ゴール寸前で完全にとまってしまった。
会場全体が騒ついている。他の選手達が次々とゴールしていった。遥だけが、水のなかでグッタリと浮かんでいた。
テントから役員が慌てて飛び出してきたところで信はようやく事の異変に気付いた。
「オイ、なんかやベーぞ!?」
と部員の一人が言った。
「俺たちも行ったほうがいいって!」
他の部員が血相を変えて飛び出していく。タケルと美津子もそれに続いた。
控え室には、信だけが残った。足がすくんで動かなかったといえば嘘になる。
本当は、目の前のこの信じがたい光景を認められずに、動いたら現実になってしまうような気がして、一歩も踏み出せなかった。
そして、どこからか聞こえた春一番に吹いた風もいつしかやんでいた。