『第3章 そのチョコを食べ終わる頃には』-4
3−2
その二日後、利恵は遼が交番所長を務めるすずかけ二丁目交番に出向いた。
「寒かったでしょう、さあ、どうぞ、先生」
コートを脱いだ利恵を、遼は奥の市民相談室に案内した。
「すみません、殺風景な所で。シンチョコでも良かったんですが」
「ううん。秋月くんと二人だけで話がしたかったから」
「そうですか」
その四畳半ほどの広さの部屋は、真ん中に楕円形のレッドオーク材のテーブルが置かれ、肘置きのついた椅子が向かい合って二客。四方の壁は薄めの鴇色で、天井の二カ所に採光用の窓、照明用の電灯も温かみのある黄みがかった光りを穏やかに投げかけていた。奥の壁に大きなモネの睡蓮の絵が掛けられている。
「何だか想像してたのと違う……」
利恵が壁や天井を見回しながら言った。
「どういう部屋を想像してたんですか? 先生」
「なんか、もっと冷たい感じで、椅子もパイプ椅子みたいな……」
遼は笑った。
「ここは『市民相談室』であって取調室ではありませんよ」
「落ち着ける雰囲気がいいわね」
「僕のこだわりです。市民の方がリラックスして話ができるように」
「さすがね。秋月くんらしい……」利恵はくんくんと鼻を鳴らした。「あれ……この匂い……」
遼は少し照れたように微笑みながら、後ろの棚に置いてあった、短い竹のスティックが数本刺さったアロマディフューザーを手に取り、テーブルに置いた。「ローズマリー」
利恵も微笑んだ。「へえ、どうして?」
「先生が来られるというので、昨日ドラッグストアで買ってきました。」
「覚えててくれたのね」
二つの湯飲みに茶を注ぎ入れ、その一つを利恵の前に置いて、テーブル越しに遼は向かい合って座った。
利恵はかしこまって背筋を伸ばした。
「懺悔させて欲しいの」
「え? 懺悔?」
思いがけない言葉が利恵の口から出てきたので、遼は驚いて訊き返した。
「ざ、懺悔って、どういうことです? 先生」
利恵は顔を上げ、寂しげに微笑んだ。
「昔話をするね。私の夫はずっと車椅子生活だったでしょ? だから夫婦の営みもずっとできずにいたの。私が高一の貴男を誘った時にも言ったけど、女の私でも身体が火照って仕方ないことって度々あるのよ」
「はい。わかります」
「あ、いいの? こういう話の内容でも」
「全然構いません。先生がお話ししたいことを何でも仰って下さい」
「ありがとう」
利恵は湯飲みを持ち上げて茶を一口すすった。
「夫の剛さんもそのことは理解してて、不能な自分が情けない、ってよく言ってた。でも私はそれを承知で結婚したわけだし、気にしないで、って言ってたの」
「剛さんも申し訳ないと思ってたんでしょうね」
利恵は頷いた。
「私が教職についた年、いきなり彼が私に言ったの。俺の代わりに君の身体を慰めてくれる人がいたら、抱かれてもいいよ、って」
「えっ? 剛さんがそんなことを?」
「私もびっくりして……そんなことできるわけない、ってすぐに否定したの。でも、彼、真剣な目で続けるの。俺はかなり本気なんだ。三つの約束を守ってくれさえすれば君がそういうことをするのを拒まない、って」
「約束?」
「『俺に気づかれないこと、家庭を第一に考えること。特に遙生に悪影響を与えないこと、そして絶対に本気にならないこと』」
「まあ……どれも当然のことですね。ドライな割り切りの関係であれば構わない、ってことでしょうか」
「そうなんだけどね。でも夫が妻の浮気を公然と認めるってことでしょ? あり得ない、って思った」
「剛さんは車椅子生活の間、先生とは、その……」
利恵は寂しそうに微笑んだ。